会報誌「ともに」横浜だより

19.1.13 No.45

40周年を振り返って信愛塾スタッフ 福島周
 11月23日に信愛塾の設立40周年を祝う記念集会が開かれた。初めて参加する周年行事であったが企画段階から関わり、並行して記念誌や映像を制作した。特に記念誌は突貫工事で制作した35周年の反省をもとに、記念誌らしい見栄えにするという課題があった。個人的にもグラフィックデザイナーとしての職能を生かし、充実したものにしたいという思いは強かった。
 作業は信愛塾が初期の頃に発行していた「打越通信」の合本を読むことから始まった。そこには信愛塾が設立するきっかけとなった、在日コリアンの子どもに就学通知が届かなかったことや、様々な差別事件に対する信愛塾や関係団体のアクションが、苛烈な言葉も含め熱量をそのままに掲載されていた。当時のことを知らない人間が読んでも、保護者や支援者の悲痛で切実な強い思いが伝わり、憤りや苛立ちも覚えた。また、日々の取り組みや経済的な窮状や支援のお願い、子どもの思いも書かれていて、今と違う、今と変わらぬ信愛塾の姿も描かれていた。
 同じ頃、かつて信愛塾に来ていた大人がふらっと信愛塾に来ることが何度かあった。近況報告と少し重い話題を軽い調子で竹川と話し、「またね」と言って帰って行く。それだけの出来事ではあるが、濃い時間を過ごしてきた者同士だから分かり合える言葉があることに感じ入り、うらやましくも思った。打越通信を読み、大人の信愛塾生と出会い、歴史だけでなく様々な思いも伝えられる冊子にしたいと考えるようになった。そこで「記憶と記録」という、そのままではあるが、そのままを伝えられるタイトルと内容にすることに決めてデザインを進めた。その後も修正や検証を重ね冊子は出来上がり、準備も大詰めの段階だった。あとは各々がやれることをやり、子どもたちが輝く会になることを願って当日を迎えた。
 当日の参加者は100名を超えた。1部はほぼ滞りなく進んだが2部では時間の調整に奔走した。司会の高校生やサポートしてくれていた学生たちが柔軟に対応してくれたことがとても心強かった。子どもたちが歌を披露しているときにはその堂々とした姿に思わず目頭が熱くなった。さすが信愛塾生、やるときはやるのである。忙しくも楽しい時間は流れるように過ぎていき、大きなアクシデントもなく盛況のうちに会を終えることができた。
 翌日、新聞3誌に集会のことが掲載された。いずれも子どもたちが歌っている写真入りである。また、参加した方から「35周年の時に比べていろんな参加者がいた」という言葉をいただいた。5年前より参加人数が増えただけでなく幅も広がったのだ。それは参加者だけでなく手伝ってくれたスタッフも同じである。信愛塾に来ている学生、かつて通っていた大人たち、保護者、学校や行政の方々、信愛塾に関わりのある団体の皆さん。年齢も所属も様々な人たちが全面的に協力してくれた。参加者にしてもスタッフにしてもこれだけの幅があることは、5年間で活動の裾野がいかに広がったかということをよく表していると思う。
 冊子も良い評判を聞くことができている。スタッフとして企画から当日までを通して思うことはいろいろある。その中でも強く思ったのは、40年間、常に信愛塾に通ってくる子どもがいて、信愛塾が彼ら、彼女達を迎え入れ続けている事実だ。社会や生活のあり方が世界的に大きく変わったことで信愛塾に来る子どもたちの背景、国籍やつながる国も変わっている。それらに適度に対応し、しかし軸の部分はぶれることなく、子どもの命を守るために動き続け、子どもにとっては「居場所」になり続けている。やがてかつて子どもだった多くの大人達が信愛塾を支え、同時に今いる子どもが信愛塾を作っているのだ。それが繰り返されて大きな物語になっていっている。自分の関わりはまだまだ浅いが、それを強く感じる日々であったし、そのことに思いを巡らせてはその太くて力強い流れに勇気づけられることが多かった。
 信愛塾にとっての一つの通過点は過ぎた。日本社会も来年4月に大きな曲がり角を迎える。この社会状況でどのような物語を描いていくのか。集会で竹川は「今後は政策提言もしていきたい」と語り、大石は差別や偏見を失くす取り組みについて熱く訴えた。僕個人としては、まず信愛塾で一翼を担える存在になること。2年間で軸足はできてきたと思う。もう一方の足をどこに置くのか、それを探る3年目にしたいと考えている。社会を変えていくために必要な遠くまでを見据えた視点と、目の前にいる子ども達に向き合うための視点、どちらも大切にしながらスケールの大きな物語を描けるようになっていきたいと思う。
40周年に参加した子どもとスタッフの声
(緊張しましたか?)
しませんでした。
(練習の成果は出せましたか?)
出せなかった。
(何パーセントの出来ですか?)
5%!
[小学校2年生]

信愛塾側のスタッフとして一番感じたことは、多くの方々に支えられているということでした。
そして一番良かったことは、40年という時間は重く長い年月だったのだろうと体感できたことでした。
そのことを心に留め、これからも信愛塾のお手伝いをしていこうと決めました。
[信愛塾ボランティア]

この前の40周年記念は本当に良い経験になりました!
機会も少ないなか、司会を頼まれた事が本当に嬉しいです。
大勢の人前で喋る事はやはり今も不慣れですが...前に比べて良くなりました!
楽しかった点はみんなで一つの机の上に集まり、計画を立てたり討論したこと。
大変だった点は直前の30分の原稿練習の事です。
でも上手く行ってよかったです!
[高校2年生]

信愛塾40周年の司会を務めさせていただきとっても光栄に思っています。
信愛塾のスタッフが私たちを裏で支えてくださったことで当日、楽しく1日を過ごせました。
この経験を自分の将来に生かしたいと思っています。
また機会があったら是非手伝っていきたいです。
[高校1年生]

小さな在日韓国・朝鮮人の子ども会からスタートした信愛塾が40年も続きその節目に立ち会えた事は奇跡にちかい。
ハラハラ、ドキドキさせられた子ども達が大きく育ち、信愛塾や学校、地域社会で大活躍している。
私にとって頼もしく可愛い仲間が増えとても嬉しい。
彼、彼女達の今後の成長に期待している。
あなた達がこれからの信愛塾を作って行くんだ!
[信愛塾センター長]

(40周年の歌の感想をどうぞ)
本番ではちゃんときちんと歌えたので良かったと思いました!
(みんなの前で歌って緊張しませんでしたか?)
緊張しませんでした!楽しかったでした!!
[小学校3年生]

楽しかったーーー!!!!
[小学校4年生]
入管法改定に思う信愛塾スタッフ 大石文雄
 改定入管法が国会を通過した。強引なやり方は当初から予想されていたが、こんなことばかり繰り返される日本は一体どうなっていくのかと暗澹たる気持ちになってくる。外国人労働者受け入れの必要性も分かるし、そのこと自体に異を唱えている訳でもない。「労働力を呼び寄せたつもりがやって来たのは人間だった」と言う言葉が端的に示しているように、まず最初に議論しなければならないのが外国人の人権をどう保障していくのか、どのように共に生きる社会を築いていくのかという議論だ。ところが深刻な労働力不足を理由に安い労働力の受け入れというご都合主義がまたしても繰り返された。技能実習制度も法改正したばかりだが、実態は低賃金、長時間労働、職場暴力、自殺、強制帰国など外国人に対する人権侵害の事実がボロボロと出てきている。議論が進むに従い「こんなにひどかったのか」と世間を驚かせた。ところが政府はこうした事実をひたすら隠し、ごまかし、国会通過だけを急いだ。
 外国人労働者が126万人もいる日本は既に立派な移民国家である。移民国家であれば外国人との共生が必然的に求められる。そのためには福祉や医療や教育や文化などにお金を使いどのように人権に配慮した制度を作っていくのかが求められてくる。外国人の地方参政権や公務員の国籍条項の撤廃も求められる。「永住者」としての在留資格付与も当然だ。しかし、政府はこのような課題から逃れるために、「やがては帰る労働者」として「日本は移民政策をとらない」で押し切ったのである。
 これまで政府も企業も外国人労働者を安価な労働力として使ってきた。時には景気の調節弁として利用し、日本人がやりたがらない3K(きつい、汚い、危険)労働にも従事させてきた。企業も政府も人間としての外国人との共生施策に金を使うこともなく福祉も医療も教育もすべて地域(学校や自治体や地域NGO)に丸投げしてきた。
 このことを40年間も共生のための地域実践を続けてきた信愛塾の視点から見てみよう。「居場所」や外国人相談のスペースやスタッフの人件費や事業費など、政府からは一切、助成を受けたことはない。外国人相談は年間800件にもなり、学校現場や福祉の現場からも悲鳴が聞こえてくる。これが現状であり実態でもある。外国人との共生は口で言うほど簡単でもきれいごとでもない。言葉の壁もあり、お金もかかり、時間もかかり、時には危険と向き合うこともある。だから先を見据えた政策が必要であり、そのための国会論議なのである。具体的な策を欠けば底なしの人権劣国に陥っていくばかりである。外国人との共生度合いは、世界人権の一指標になっている。オリンピック開催を前にして、今、日本に暮らす私たち一人一人の人権意識が世界から注目されているのである。