会報誌「ともに」横浜だより

19.11.9 No.50

The Beautiful Japan信愛塾ボランティアスタッフ ジャスリン・クルーズ
 日本はとても美しく清潔な国で、訪ねたくなる綺麗な場所もたくさんあります。交通手段となると何の問題もないのもボーナスで、日本人は誰かと会うにも時間通りで、毎分が大切で、時間を無駄にしません。私はそれを本当に良いことだと思います。日本で暮らしている人々は本当に素敵で礼儀正しいです。
 信愛塾は子供たちが宿題をするのを手助けし、勉強しようという思いにさせてくれます。子どもの成長を手助けする活動もあります。それは信愛塾の先生たちが(スタッフが)信愛塾の近くの遊び場で子どもたちと一緒に遊び、子どもたちが本当にそれを楽しんでいることです。わたしもその活動の一部にさせていただいたことを感謝しています。信愛塾に行くたびに、違うレベルの幸せを心に感じました。たった一か月でしたが、私をスタッフの一人として扱ってくださってありがとうございました。ちゃんとした形でさよならを言えずごめんなさい。みなさんみんなをなつかしく思うでしょう。
 本当にありがとうございました。(翻訳 信愛塾ボランティアスタッフ 高本由美)

Japan is a very beautiful and clean country and also have many beautiful places that you can visit. The bonuses is there are no traffics or struggles when in comes to transportation, and they're also in time when meeting someone and every minute is important they're not wasting time and for me its really good. In another hand the people living here are so nice and well disciplined.
Shin Ai Juku helped children's do their homeworks, motivating them to study. There's also have activities that can help the children. In the other hand teachers are playing with them in playgrounds near to Shin Ai Juku that childrens really enjoyed it. I'm thankful that I been part of it, when I always go there I felt another level kind of happiness in my heart. Thank you for having me even in just a month you we're really treated me as one of your stuff. Sorry for not saying goodbye in a formal way but Thank you very much and I will miss you all!
45年目の再会信愛塾ボランティアスタッフ 廣海久彌
 今年10月のある土曜日の午後1時、横浜駅西口の待ち合わせ場所に私はドキドキしながら立っていた。そこへ一人のご婦人が私の顔を覗き込むようにして声を掛けてきた。「廣海先生ですか?」と。
 この時刻、この場所で私に声を掛けてくるご婦人はA子さんしかいないない、私の記憶の中にある45年前のAさんと重ならない。声を掛けてきたご婦人にしても、私が45年前の担任だった頃の印象と大きく違っていたようだ。とは言え、メールと電話の遣り取りだけで交わした45年振りの待ち合わせは成功した。
 私たちは、時間を惜しむかのように駅ビルの中の喫茶店に入り、積もる話をすることにした。その店は、2時間限定での利用ということだったが、働く主婦のA子さんの貴重な時間を長く拘束するわけにはいかない。それに、1年間だけの師弟の関係だったが、45年間の空白は2時間も話をすれば埋まるだろうと楽観していた。
 この待ち合わせの実現は、この日から約1ヶ月前に信愛塾に届いた次のようなメールから始まった。
 「(前略)私は昭和48年に戸塚区のある小学校で5年生の時廣海先生が担任の生徒でした。私は廣海先生に出会ってから自分を変えることができました。あれから45年の月日が経ちましたが、自分の子を、孫が小学生になるたびに廣海先生の事を思い出しておりました。ある機会でこちらに廣海先生がいらっしゃることを知り是非お逢いする事ができればと思いメールさせていただきました。(後略)」
 喫茶店での最初の話題はこのメールの「ある機会」のことだった。それは、Aさんの知り合いの小学校教諭の方から見せていただいた信愛塾の通信『ともに』だというのだ。以前私が書いた原稿に私の名前を見つけたのだそうだ。そのことを皮切りに話が弾んだ。加えて、彼女がわざわざ持ってきてくれたその当時の写真や卒業アルバムが私たちを45年前の関係にタイムスリップさせてくれた。日記を毎日書き私に添削してもらったこと、私が当時住んでいたアパートに休日クラスの皆と遊びに行き青森の林檎をご馳走になったことなど話ははとめどなく続いた。あっという間の2時間だった。
 「僅かな時間でもやはり先生から学ばせて頂いたものは沢山ありました。自分が母として一人の人間として忘れかけていた思いが先生の一言一言で気付けた感じがし、先生にお会いできて本当によかったです。」
 これは、会った日の夜SMSで送信されてきたAさんからのメールだ。
 私が担任した19年間で教えた子は約700人いる。その多くの子どもたちとは、小学校を卒業してからは会っていないが、Aさんのように縁あって「ともに」学んだ日々のことを覚えてくれていて、真っすぐに生きている子が多いだろうと思うと、元気が出てくるし教師冥利を感じる。そして、私は約700人の子どもたちにとって生涯の教師なんだという思いを新たにした。
 この出来事を通して、信愛塾に通う子どもたちに対してもそんな気持ちで接してあげたいと強く思った。そうした思いを、再びこの『ともに』に執筆できる喜びを噛み締めている。
「忘れないために記憶すること」信愛塾スタッフ 大石文雄
 「韓国近現代史と光州人権都市を訪ねる旅」に参加した。日韓関係悪化の中で企画された旅ではあったが実に多くのことを考えさせられた。日韓の近現代史に目をそらさず、政治権力の腐敗に抗して民衆が歴史の主体として立ち上がっていった韓国の近現代史を身体で感じることができた。訪ねたところは東学農民戦争の史跡地である全羅北道井邑と光州民主化抗争の舞台となった光州(人権都市)、それと植民地歴史博物館(ソウル)であった。旅行中は天候にも恵まれ秋の韓国の農村風景を満喫することができた。
 東学農民戦争は言葉としては知っていても、それが実際どのような意味を持っていたのかはあまり知られていない。井邑にある東学農民革命記念館に着くと館内ホールに一本の柿の木が立っていた。日本語で案内をしてくれたスタッフ(ソンビョンソプさん)は「130年前、村の市場に立っていた柿の木だ。東学農民運動の指導者全琫準がこの木の下で革命を起こそうと宣言した。人々は死んだがこの木だけは残って見守ってくれている」と。ソンさんは「韓国人でもよくは知らない東学農民革命を、遠く日本から学びに来てくれてとても感動した」と語った。19世紀末、朝鮮は勢道政治と言われる時期で身分秩序が崩れ悪い官吏が不正行為を度々おこなった。1894年、貪官汚吏に苦しめられた東学農民が古阜で決起する。戦いは東学という宗教の影響もあり瞬く間に全国各地に広がっていった。東学は「人乃天」という徹底した人間主義と平等主義に貫かれていた。全羅道各地で政府軍との戦いに勝利した農民軍は全羅道の首府である全州城を陥落させる。この農民軍を鎮圧するために朝鮮政府は清に援軍を求めるが、機をうかがっていた日本軍も同時に出兵する。農民軍は日本の侵略を察し政府軍と「全州和約」を結び、軍を解散する。和約が結ばれ外国の軍隊は朝鮮に留まる理由がなくなったにも拘わらず日本軍は引き上げない。それどころか朝鮮の王宮を占領して国王を捕らえ、清軍の朝鮮からの追い出しを日本に依頼するように国王を脅迫する。つまり清国と戦う正当な開戦理由が欲しかったのである。こうして日清戦争が始まっていった。農民軍は、今度は日本軍を朝鮮から追い出そうと第二次蜂起を起こす。日清戦争と言っても戦場は主に朝鮮であり、殺された人の数で最も多いのは清軍でも日本軍でもなく、5万人にも及ぶ朝鮮の農民軍であったという。多くはライフル銃で武装した日本軍が竹槍と火縄銃の農民軍を全羅道南部に追い詰めて虐殺したのである。日本政府はこのことを明らかにせず事実を隠し続けているという(「東学農民戦争と日本」中塚明・井上勝生・朴猛洙著)。もちろん僕らもこうした歴史を学校で教わってはこなかった。韓国でも長い間、東学農民革命のことを「東学党の乱」と言い、東学農民軍は暴徒扱いされてきた。軍事政権が長く続いた間は、戦争の犠牲になった家族ですら東学のことを口にすることすらできなかったという。東学農民が見直されるようになったのは金大中政権になってからで、盧武鉉政権の時に国会で「農民革命参与者の名誉回復に関する特別法」ができ、今年(2019年)になって文在寅政権が初めて記念日を作り「乱」から「革命」と呼ばれるようになったという。
 僕らが次に訪ねたのは光州である。1980年に光州事件のあった光州はユネスコの世界記録遺産に登録され、今や光州人権都市として名高い。映画「タクシー運転手」でも光州事件が描かれ日本でも多くの人に知られるようになった。でも韓国では、軍事政権下において、人々は光州事件を口にすることすら躊躇したという。5.18民主化運動記録館を訪ねると日本語ガイドの金容哲さんが待っていてくれた。金さん自身も光州事件の当事者で全南大学の学生であったという。1980年5月18日、民主化を求めて平和的デモをしていた学生に軍が襲いかかり、暴行を加え、その余りのむごさに市民の怒りが爆発する。全斗煥新軍部政権は非常戒厳令の下、特殊空輸部隊を導入して、暴力でもって民衆を弾圧し虐殺した。市民はそれに激しく抗議し一大民主化抗争を展開する。軍の検閲を受け事実を伝えようとしない放送局に火が放たれる。戒厳軍は街を囲み、情報が外部(世界)に漏れないように封鎖する。近隣の若者は手に銃を持ちトラックに乗って光州を目指す、やがては光州の街は市街戦場と化していく。市民は大同団結し戒厳軍と戦う。金さんは「市街戦となっても銀行や宝石店など一軒も襲われることはなく、市民によって秩序が保たれていた」という。金さんは「この写真にある少女は高校生で、傷ついた市民を助けるために何度も献血に行く、その帰り道、彼女は銃で頭を打たれ亡くなるのです」「あなたが家族だったらどうしますか?あなたがこの子の父親だったらどうしますか?」と問いかけてくる。当時死体が安置されていた尚武館(体育館)や最後まで銃撃戦が戦われた全南道庁、市民集会が開かれた道庁前の噴水台などを見た後、光州自由公園(当時軍の施設だったところで、捕らえられた若者はここで拷問を加えられ監禁された)、望月洞墓地、国立5.18民主墓地などを訪ねた。金さんは犠牲者の墓碑の前でも「あなたがこの子の親だったらどうしますか?」と問いかけてくる。僕らは「…」、言葉が出てこない。すると金さんは「このことを忘れないためにも記憶してほしい、忘れたら同じ過ちが繰り返されるからです」と言う。民主主義や人権は放っておいてもひとりでに手に入るように思われがちだが、このような尊い犠牲なくして獲得できなかったことをあらためて知った。韓国では今も民主化のための闘いが続いており、常に民衆が歴史の主体を担っていることを実感させる。過去(アジアの人々への加害の歴史も含めた)とどう向き合い対話していくのか、真の民主化や自由や人権をどう確立していくのか?韓国には今の日本が学ばねばならないことが凝縮している。それを強く感じさせられた旅であった。

世界の中の日本人~2019RWCボランティアを経験して~信愛塾ボランティアスタッフ 藤井芳樹
 2019年ラグビーワールドカップが9月20日の東京スタジアムをスタートに日本全国で開催されています。私も、自分の貴重な体験としてお手伝いをさせていただこうとボランティアとして登録させていただきました。横浜国際競技場の会場周辺案内を担当することになりました。計7日間のお手伝いです。
 この原稿は、まず三日目のお手伝いを終え、案内役として日本を始め多くの国の方々と接する中で強く感じたことを私感としてまとめたものです。(現在、日本が予選グループを一位で勝ち抜いたことを書き留めておきましょう。10月20日の準々決勝にはパブリックビューイングに応援に行こうと考えています。ちなみに、11月2日の決勝は、横浜国際競技場で開催されます。その日もお手伝いさせていただきます。私は会場の外周道路で道案内をしていて試合は見られませんけど。)
 案内役の内容は、観光バスでやってくる観客の方々を道路に立って誘導する仕事です。黒・黄緑・青・紺、それぞれが応援する国の色のジャージを着ている海外の方々が集団で私の前を通り過ぎていきます。一人ひとりの顔を見ながら、満面の笑顔で「こんにちわ~。」と元気よくお迎えの挨拶。すると、「コンニチワ~。」とあちらも満面の笑顔で返してくれます。仲間とおしゃべりしていた人も、話をやめて挨拶を返してくれます。握手を求めてくる人・ハイタッチをしてくれる人もいました。一緒に写真も撮ってくださいました。人とつながったと思う瞬間をボランティア活動の快感というのではないしょうか。人なつこさとどんな場所でも人との繋がりを楽しむということの大切さを感じさせていただきました。
 また、挨拶の言葉だけでなく、「アリガトウ。」「Thank you」という言葉が多く返ってきたことも印象に残っています。ボランティア活動をしている私たちに対して、運営側のスタッフの一人であるというよりは、RWCを一緒に楽しむ仲間としてみてくれているような気がしてとても嬉しかったことを覚えています。
 新しく学んだこともありました。たったの一言の違いの大きさも実感できる良い機会となりました。それは、「こんにちわ。」と「こんばんわ。」の違いです。先に述べたように、「こんにちわ」に対する海外の方々の反応はとても暖かいものでした。午後7時45分キックオフの試合のお手伝いをした時、日没前の活動で「こんにちわ。」と挨拶をしていた時の反応はとてもありがたいものだったのですが、日没後に「こんばんわ。」という挨拶に代えたとたんに、海外の方々の反応が薄くなったのです。自分なりに分析をしてみると、「こんにちわ」より「こんばんわ」の方が世界の中の日本語として知れ渡ってないことが原因のような気がします。「こんばんわ」に返す言葉を知らなかったということでしょうか。そう判断して、もう暗くなっているのですが「こんにちわ」の挨拶に代えました。すると予想通り、多くの挨拶が返ってくるようになりました。良い勉強になりました。
 10月13日、日本対スコットランドの試合の日。日本の紅白ジャージとスコットランドの紺ジャージを着た人たちの誘導を行いました。残念なことに、日本人と思われる多くの方々の挨拶の反応は明らかに今までとは違っていました。目を合わせてくれない・顔を上げてくれない・仲間とのおしゃべりに夢中・挨拶を返してくれる人もいない。もちろん、皆無とまではいかないまでも、今までの様子とは明らかな違いを感じたことは事実でした。
 海外の方達は旅行気分があるから、習慣・風習の違いがあるからと、それらもあるかもしれません。しかし、これから世界の中の日本として活躍していくためには、きっと将来的に大きな課題となっていくような気がします。私たち、子どもの身近にいる大人達は、多くの人々と仲間意識をもとうとし、楽しもうとする気持ちを常にもち、自分をアピールしていく態度を身に付け、それを日本で生活する子ども達にも伝えていかなければならないと強く感じました。
 自分の世界を出て世界の人々が集う世界大会のボランティアのお手伝いができて、自分の人生の中での大きく重要な経験となりました。