会報誌「ともに」横浜だより

20.12.25 No.57

信愛塾に出会ってテレビ局ディレクター 章 一帆
 こんにちは。今年の5月~7月にかけて信愛塾を取材させて頂いた章と申します。今回、「ともに」への執筆のお話を頂き、僭越ながら筆を執らせて頂きました。「私に書けることなどあるだろうか」とたくさん悩んだのですが、日本人ではない私が信愛塾に関わらせて頂く中で感じたこと、そして番組のテーマとさせていただいた、「竹川さんが子どもたちに見る希望とは一体なにか」について(番組時点で)私なりに出した答え、この2つを書かせて頂ければと思います。
 私が信愛塾を知ったのは3月のことでした。日本に住む外国人に興味があった私は新聞記事を読む中で、横浜で40年以上にわたって外国人の子どもたちが放課後を過ごしてきた場所があることを知りました。
 「外国人の子どもが集まる場所ってどんな場所なのだろう」
 初めて信愛塾を訪ねた日、足を踏み入れた途端に目に入ったのは色んな言語の張り紙、九九、子どもたちの絵、棚に置かれたたくさんの本でした。正直なところ、竹川さんや大石さんと初めてお会いした日にお話ししたことはあまりよく覚えていません。けれども、帰り際に竹川さんからチョコレートをもらったことと、信愛塾という空間になんだか心がほっとしたことを今でもよく思い出します。そこから信愛塾に惹かれ、「もっと信愛塾を知りたい」と通うようになってから、何度も思ったのが「日本の中にこんな場所があるのだ」ということでした。
 生後6ヶ月で上海から日本に来た私は、保育園から日本人に囲まれて育ちました。そのため、日本語の読み書きに苦労はしませんでしたが、中国語は両親や親戚、祖父母と会話するための上海語しか話せません。幸運なことに(日本人と誤解されていただけかもしれませんが)、小学校から大学まで国籍を理由にいじめられたことはありませんでしたが、私の中にはいつも「自分は周りの友達とは違う、いつか排除されるかもしれない」という思いがありました。
 日本人だと誤解されても自然に「違うよ」と言えなかったこと、学校で自分がルーツを持つ国について否定されたときに排除されることを恐れて反論できなかったこと、発せられる言葉に傷ついてしまうから周囲と同調することもできない、かと言って誇りを持って立ち向かうこともできなかったことに後ろめたさを感じ、そんな自分をいつもどこかで恥じていました。けれども今回、信愛塾で過ごさせてもらった日々はそんな私にも変化をもたらしてくれました。
 信愛塾では色んな国の子たちとスタッフがそれぞれの国の言葉や日本語でのびのびと自由に過ごし、言葉の壁などものともせず、勉強したり、遊んだりしています。そして取材の中では「居場所はいくつあってもいい」「それぞれの人のルーツはその人にとって大事な一部分だから私たちも絶対に大切にする」といった言葉を、何度ももらいました。信愛塾に広がっていた光景やいただいた言葉は、どちらの国の人でもないどっちつかずな自分に悩んでいた私に、「自分は自分として誇りを持とう」と思わせてくれました。
そして取材も終わりに近づいた頃、何よりも心に引っかかっていたのが、竹川さんが何度も語っていた「子どもたちは希望」という言葉でした。
 「竹川さんが子どもたちの中に見る希望とは一体なんなのか」
 ずっと考え続けてきたのですが、それはどんな子どもたちの中にもある未来のことではないかと今は考えています。どんなに大変な状況にあっても子ども一人ひとりに未来は広がっている。何十人、何百人もの子どもたちと伴走する中で、竹川さんは子どもたちの気持ちに少しずつ近づき、ともに未来を見、ともに切り開いてこられました。
 うまくいくことばかりではないけれども、そうやって未来へとともに走る過程こそが竹川さんにとっての希望なのではないかと私は勝手に思っています。
 最後に私が信愛塾について思うことを。「信愛塾」という場所は異国で生きる子どもたちにとってまさに希望です。一朝一夕でできたものではなく、何十年前から今に至るまで、多くの人の気持ちと行動によって作られ、守られてきた居場所だと思います。異国で生きる子どもであった一人として、これから先も信愛塾が多くの子どもたちにとって希望であり続けられることを心から願うと同時に、私自身も何らかの形で信愛塾を作る人であれればと思います。このたびは本当にありがとうございました。
私の一年のあゆみ信愛塾ボランティアスタッフ 林 健懿
 今回は私が2020年に入ってから過ごしてきた大学生活のことやそこで思ったことを思いのままに書き綴っていきたい。そして最後に信愛塾に関わっている皆様にメッセージを伝えたい。
 まず私の高校は2020年3月に卒業式が行われた。その時はコロナが拡大中ということもあり、親や後輩などの参観は無しでそのまま進められた。私としては親に見られることはかなり恥ずかしかったため、親の参加がないというのはかなり嬉しく、そしてホッとした部分もあった。そして卒業式は無事に終わり、私はクラスのみんなと教室に戻った。そこでみんなと一緒に卒業アルバムに最後のメッセージを書き合い、最終的に高校の校門を後にした。これが私にとって高校との最後の別れである。校門を出た時の気持ちは今でも鮮明に思い出すことができる。それはこの高校が終わったらきっと親しかった友達と会うことはなくなっていくだろうという寂しい気持ちである。3年間ずっとクラスが一緒だった友達も卒業を契機に絆も思い出もなくなってしまうのである。私が中学卒業した時はこの気持ちはそこまで感じなかったが高校時代になり、改めて少し寂しいと感じた。
 場面は変わって私が一人暮らしをしようと準備していた3月、4月、5月の話になる。私はその時は大学生活に対する期待や友達を作れるかや授業が難しいかどうかなど未知なことに対してとても怖がっていた気がする。これは私の性分でもあるが私はとにかく心配症なのである。高校時代は指定校推薦を勝ち取れるかが気になり、夜も眠れない日もあった。おそらく私は過度に失敗を嫌っているのだろう。私は物事が自分の思い通りになるとは思っていないが物事がこうあらねばならないという気持ちが強すぎていた。今は「嫌われる勇気」という本に出会い、自分は自分、他人は他人というふうに区別して考えることによって心配性はある程度改善できたと思う。
 話を戻すと大学に行く前の時期はコロナのパンデミックの影響により大学は授業開始の延長を強いられており、そのたびに私たち学生は大きく翻弄されたと思う。この時の大学の対応は今でも正しくないと考えている。あの時の授業開始延長は仕方ないとはいえ、オンライン授業の詳しい登録方法は紙を郵送しただけで詳しい説明会などは全くなかったり、履修登録をやり方を教えてくれる人はほとんどいなかった。そのため私と同じ新入生は色々と困ったことがあったのではないかと思う。正直に言えば大学に対しての不満は今でも数え切れないほどあるがここでは言及しない。大学側が学生たちの不満を汲み取って改善することを祈るばかりである。
 次に自分の精神面について書いていきたい。私はこの1年間自分ひとりでは解決できない問題に多く出会い、そしてその度に無力感や惨めな気分を味わってきた。だから高校時代に比べ、失敗にある程度強くなったとも言える。今の私はそんな経験をしたためか諦めが重要という考えに変わった。こうした意味から私は少し大人に近づけたのではないかと思う。話は変わり、もし来年も大学がオンライン授業だった場合、私は大学を休学し自分の母国の中国に行くことを計画している。私にとって1年間オンライン授業はまだ妥協できるが2年間オンライン授業は自分の人生を無駄にしているとしか感じられない。そのためその1年間をオンラインではなく自身の母国に戻ることに使い、自身のアイデンティティや中国に戻った時の生き方を探っていきたいと思っている。私は長年日本で過ごしてきたため中国に戻って仕事をした場合どうなるかわからない。そのため中国に帰った時、将来日本か中国どちらで過ごすか見極めていきたいと思っている。
 私は10月頃から信愛塾に関わり、そこで改めて子ども達について気づかれされることがある。それは子ども達の強さである。信愛塾に通っている子ども達は誰もが外国人の子ども達であり多少なりとも問題を抱えていることは多い。しかし彼らはいったん信愛塾に入るとみんな健気に遊んだり喋ったりしている。彼らはそんな複雑な問題があったとはおくびにも出していない。だからこそ私たち大人は子ども達が抱えている問題を見逃さずにしっかりと直視していかなければならない。子ども達はとても強いがそれでも折れる時は多くある。そんな時は私たち大人の出番である。そして私は少しでも子ども達の助けになっていきたいと思う。
 今回は私自身の経験について書き記したが皆さんもコロナパンデミックの中で多くの苦労があったと思う。そして私から言えるのは例えどんな苦労があっても生きていかなければならないということである。それならめいっぱい楽しく過ごしていけば人生は楽しいかもしれない。ありきたりな言葉ではあるが楽しんだもん勝ちである。