会報誌「ともに」横浜だより

21.7.7 No.60

教科書採択と歴史の歪曲信愛塾スタッフ 大石文雄
 昨年の夏に中学校歴史教科書が採択され、今年4月から新たな教科書が使われ始めたばかりなのに、今また横浜市では歴史教科書採択の「やり直し」展示会が開催されている。それは2019年度の検定で不合格だった「自由社」の歴史教科書が、新たに検定を通過し教科書として発行されたからだという。文科省は新たに発行された教科書がある場合は「採択替えも可能である」「採択替えを行うか否かは、採択権者の判断によると」と通知した(3月30日文科省通知)。コロナ禍で疲弊している学校現場やひっ迫している市財政などを考えれば、今の教科書を継続して使うという選択肢もあったはずだ。
 2009年に横浜市8区で採用された「自由社」教科書は年表の盗作とか写真の裏焼とか記述の間違いの多さなどでも話題になった。そんな「自由社」教科書のために「採択替え」の「やり直し」展示会が今、本当に必要なことなのだろうかと思う。横浜市教育委員会は10年以上も、戦争を美化し、歴史歪曲が際立つ「つくる会」系の教科書を子どもたちに読ませ続けてきた。これは全国的に見ても異例なことだった。こんな教科書採択でよかったのだろうか?教育の現場を担う教員の声を尊重しない教科書採択制度の在り方は今も問われ続けているのである。
 横浜市ではこんなこともあった。2012年に横浜市教育委員会は、中学校の社会科歴史副読本「わかるヨコハマ」を生徒全員から回収し廃棄処分にした。信じられない話だが、横浜市は莫大な費用と労力と資源の無駄を敢えて行った。それは副読本の関東大震災時の記述に朝鮮人「虐殺」という言葉が使われていると議会で叩かれたからである。しかし、よくよく調べてみると当時の軍隊ですら「虐殺」という言葉を使っていたし、震災にあった子どもたちは「虐殺」という言葉は使ってなくとも「虐殺」の現場をしっかりと目撃していたのである(「震災作文」など)。むしろ廃棄処分された副読本こそ歴史の事実を正しく伝えていると思えるのである(「歴史認識 日韓の溝」渡辺延志著ちくま新書2021年)。副読本は次のように記している。「デマを信じた軍隊や警察、在郷軍人会や青年会を母体にして組織された自警団などは朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い、中国人をも殺害した。横浜でも、異常な緊張状態のもとで、朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた」。
 関東大震災時に起きた朝鮮人・中国人虐殺の歴史を学ぶことはデマ(ヘイトスピーチ)がいかに恐ろしいかを教える生きた教材だと思う。同じ過ちを繰り返さないためにも歴史から学ぶことが必要なのである。
 今度は高校の歴史教科書だ。今、教科書の「従軍慰安婦」記述をめぐって文科省が異例の説明会を行った(「朝日新聞」6月18日)。政府が「従軍慰安婦」という用語が「誤解を招く恐れがある」などとする答弁書を閣議決定したことを受けて、文科省が教科書会社を対象に説明会を開き、それが「圧力をかけている」と疑われているからだ。2018年にジュネーブで人種差別撤廃委員会の日本審査が開催されたが、人種差別撤廃委員会の委員たちは戦時性暴力に対して強い関心を示していた。日本政府は、大手新聞社が誤った記事を流したために「強制連行」を行ったかのように日本が誤解を受けているのだと答弁を繰り返していたが、明らかに国際社会からは失笑を買っていた。そして今度は「『軍慰安婦』等の表現に関する」答弁書の閣議決定である。閣議決定に従わずに「従軍慰安婦」という言葉をそのまま使用する教科書を締め出していこうというのである。「従軍」というと軍が関与しているかのように受け止められるからだというのであるが、これは政府のこれまでの認識や見解とも異なるものだ。僕は戦争の実相を知りたくて戦争を扱った本を読み続けていくうちに、田村泰次郎の「蝗(いなご)」という小説に出会った。これは黄塵が吹きすさぶ中国大陸で前線部隊に慰安婦たちをトラックに乗せて送り届ける兵士たち(軍)の姿(性への欲望)を描いた作品だ。まさに軍の関与=「従軍」であったことを示している。政府は言葉や表現を変えることによって恥ずべき事実をなかったことにしたいのである。でもこれは逆である。事実に基づき、慰安婦にされた女性たちが戦時性暴力の被害者として、いかに人権を踏み躙られてきたのかを明らかにし、謝罪し補償し、そしてその恥ずべき過去を二度と繰り返さないために、今こそ、教訓化していくことが求められているのである。
 国や政治が教科書選定や教育の内容や学術会議にまで介入しだしてきている。安倍政権以降ますますこうした動きが強まってきている。国や政府の動きに地方自治体や出先機関も忖度し独自の判断を放棄し追随してしまう。地方自治や民主主義の崩壊であり腐敗でもある。公文書の改竄、不正を糺すこともできず、改めもしない。人は権力を恐れ沈黙してしまう。戦争ができる国家づくりである。こうした異様な動きに僕は恐ろしさを感じている。歴史を歪曲しようという社会に希望の持てる未来はないからである。でも諦めてはいない。ヘイトを排し、国境の壁を越え、共に生きようという若者も確実に育っているからである。