16.7.30 No.31
- 10年目の恩返し
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信愛塾の入り口を開けて飛び込んでくる子どもたちの顔はどれも輝いている。そして、しばらく軽口を言い合いながら、その日に学校であった出来事や家庭での様子を話題にしたところで、学校から出された宿題に一緒に取り組む。小学生は、主に漢字や計算のスキルと音読だが、子どもによっては、日本の都道府県の名前や理科の課題を課されている場合もある。中学生は宿題の替わりに、試験対策やレポート作成に取り組む生徒もいる。分からないことや間違っている場合には教え、困っているような場合にはヒントを示す。そうした学習支援が、ここ信愛塾での私の主な活動である。宿題や課題が終わった子どもたちは、キーボードに向かい担当から示された曲を演奏し、心と体を解放する。それが終わると、信愛塾で用意したお菓子や飲み物を飲食しながら、お喋りをしたり、ゲームをしたりして過ごす。時には近くの公園で、ボール遊びや鬼ごっこをしていることもある。ここに通塾する子どもたちの大部分は外国籍あるいは外国につながる児童生徒である。時にはこうした子どもたちの保護者が相談に見えたりすることもある。
私は、38年間の横浜市立小学校での教師生活の中で、最初に外国籍または外国につながる子どもとの出会いは、私が30歳代半ばにS小学校で担任したTさんであった。Tさんは父がアメリカ国籍、母が日本人だった。私が担任していた第4学年が終了した春休みに、両親が私を訪ねてきた。「来年度からオーストラリアに転居する。」と突然告げられた。そして、「オーストラリアではどんな仕事を。」という私の質問に、「オーストラリアに行ってから探す。」という答えだった。何とも思い切った決断である。仕事が無いことへの不安感は全く無いようだった。私はTさん一家のグローバルな生き方に驚かされた。オーストラリアに移ってしばらくしていただいた手紙で、日本から来る留学生の世話をする仕事を始めたことを知った。日本人とは違う外国人の感覚に圧倒させられ、考えさせられた。
次に思い出すのは、日本語が全く話せないで日本の小学校に編入してきた子どものことである。それは、私が校長になって最初の学校K小学校でのことだった。中国籍のKさんは日本に移り住んで4日目で編入の手続きをとった。その時は、区役所の方が中国語の出来る通訳を連れてきたので、日本語が全くできない子どもの日本の小学校での教育の大変さが分からなかったが、次の日からその困難さが痛いほど分かってきた。困難を感じれば感じる程、Kさんの表情が暗くなっていくのだ。私はすぐに横浜市教育委員会に相談し、中国語の学習支援の講師Fさんを派遣していただいた。Fさんの熱意と指導力によって、Kさんの日本語力は急速の進歩を見せた。約4ヶ月で友人との日本語での日常会話が困らない程になっていたことには驚愕した。しかし、学習語彙の習得と家庭での会話が新たな課題となっていた。
外国籍または外国につながる子の指導が決定的な課題となったのが、私にとって最後の学校M小学校だった。その当時外国籍または外国につながる児童が全校児童の30パーセント強(現在は54パーセント)在籍している小学校だったが、不就学児童の存在、親のオーバーステイ、家庭の無関心による不登校・怠学、日本語力の欠如による著しい学習不振、学校間抗争等、これまで出会ったことの無い問題が頻発した。それでも、心根の優しい子どもに救われ、私自身それらの課題に背を向けることなく、学校経営を楽しむことができた。それは、私の力だけではなく、教職員のチームワークと子どもたちの居場所となっていた信愛塾や寿学童保育所の存在がとても大きかったと思う。
そのような経験があって、退職してから「時間ができたら、いつか恩返しを」と考えるようになっていた。退職後、横浜市教育委員会嘱託、高等教育専門学校教員と得難い職を与えていただき、恩返しの機会までに時間がかかってしまったが、退職して10年目に、信愛塾でこうしてお世話になっている。動機はお世話になったことへの恩返しだったが、3ヶ月経った今では、信愛塾に来る子どもたちから元気をもらっているように思える。そして、今もオーストラリアにいるであろうTさん、日本の生活にも慣れ幸せに暮らしているであろうKさん、忙しさにかまけて十分なことをしてあげられなかったM小学校の子どもたちにも思いを馳せ、恩返しの営みを精一杯頑張ろうと思う。
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