18.1.1 No.38
- フィリピンスタディツアー
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8月末から5泊6日の旅程でフィリピンへスタディツアーに行ってきました。スタディツアーの大きな目的は、信愛塾に来ていて10年前にフィリピンに強制送還された子どもたちや、信愛塾で支援をしていた人たちが現在どのような生活を営んでいるのかを見に行くことです。
また、在日外国人の現状のひとつとして、フィリピンから来日する人が急増し、信愛塾においてもフィリピンにルーツを持つ子どもたちが増えています。そうした現状を踏まえ、フィリピンの今を自分たちの目で直接見ることも目的でした。
今回のスタディツアーで初めてフィリピンを訪れる私にとって、フィリピンにルーツを持つ子どもたちのバックグランドを知ることは、とても大きな意味がありました。
フィリピンで目の当たりにした「貧しさ」
フィリピンに行って感じたことのひとつに貧富の差があります。
最初に宿泊したのはマニラの繁華街で、近くには大きなショッピングモールやたくさんの店が並んでいました。多くの人が買い物や食事を楽しんでいる一方で、少し通りを入ったところでは物乞いをする人や、路上で生活をしている人たちが多く目につきました。なかには子どもを連れた母親が道行く人に手を出して物乞いをしていました。まだ3歳くらいの子どもも何もわからず母親の真似をして手を差し出していました。
また、ある家族を訪ねてミンダナオ島のダバオに行き、海沿いにある大きな公園にみんなで行ったときのことです。海に面したところは堤防になっており、堤防の先の方には漁で生計をたてる人々が住むバラックが並んでいました。5mくらい下に見える海面を覗くと、海に入った子どもたちがこちらを見上げて何かを叫んでいます。聞いたところによると観光客がコインを投げるのを待っているのだそうです。
堤防沿いのバラックは不法に建てたものであり、子どもが拾うコインも漁だけでは食べていけない生活を支える糧になっているそうです。一方で子どもたちはふざけたりしながらコインが投げられるのを待ち、コインを拾えなかった子どもも暗い表情をしていません。おそらく物心ついたときからやっていることなので、彼らにとっては遊びの一環なのかもしれません。世界を見渡せばさらに貧しい状態にある子どもはいるでしょう。しかし、日本では見ることのない、考えもしない光景でした。投げる側にいることで、罪悪感に近い複雑な心境になりました。
また、外国人だけでなく、おそらくフィリピン人であろう人たちもコインを投げていたことに、格差の大きさを直接的に感じざるを得ませんでした。誰しも出生の環境を選ぶことができないのは当たり前ですが、そこに生じる格差の凄まじさと、それでも明るく笑う子どもの表情が、今も心に強く焼き付いています。
逆境を乗り超えた青年が語る熱い想い
フィリピンでは大きく分けて4つの出会いがりました。最初にミンダナオ島のダバオで2家族と、その後バターン半島のオリオンで同じく2家族、そしてアンヘレスで信愛塾が支援していた方と会うことができました。ダバオで会った家族に、デニス・ラーガという大学4年生の男の子がいます。彼は日本で生まれましたが、小学校5年生のときにフィリピンに強制送還されました。そこで言葉の壁に突き当り、授業についていけなかったため1年生と一緒に勉強し、6年生を3回やったそうです。その結果、言葉や勉強の壁を乗り越え、得意なバスケットボールの才能を認められて推薦で大学に入ることができました。
卒業を来年に控える彼に卒業したらどうしたいか、夢は何か聞いたところ「日本で仕事をしたい」と言いました。その理由を聞くと「日本は生まれた国だから」と、はっきり言ったのです。強制送還により自分の意思とは関係なく日本を離れることになり、多くの苦難を乗り越えてフィリピンで自分の居場所を作ったはずです。
また、彼は日本でフィリピン人の両親の元に生まれたフィリピン人です。きっとアイデンティティの悩みと向き合って成長してきたのでしょう。そのうえで生まれた日本に戻りたいというその気持ちは、出生も血縁も日本に強く基づいている自分には考えが及ばない、さまざまな想いがあると思います。彼が語ってくれた夢は、胸を熱くしてくれるものでした。
「夢を語る力」を持ったフィリピンの子どもたち
もうひとつ、子どもが語ってくれた夢について書きたいと思います。バターンで会った、高校一年生のバヤリーという女の子がいます。彼女が住んでいる地域はあまり発展しているとはいえず、多くの人が出稼ぎに出るそうです。そのため、大きくて立派な家は出稼ぎに出て成功した人が建てた家らしく、昔からそこに建っている家との違いは歴然としていました。彼女の両親も日本に出稼ぎに来ていたのですが、日本で4人の子どもを育てて生活していたこともあり、お金を貯めることができませんでした。家を建て始めたものの途中で資金が尽きてしまい、家の建設も途中の段階で止まってしまったそうです。今住んでいる家も6人で暮らすには手狭で、生活が楽ではない印象がありました。バヤリーは成績が良く、特に理系の科目が得意だそうです。同行していた記者の方が彼女に夢を尋ねると、「医者になりたい」という言葉が返ってきました。中でも外科医になりたいそうで、子どもの頃から憧れていたそうです。照れながらもやはりきちんと答えてくれたバヤリーから、前述したデニスにも共通するものを感じました。
それは「夢を語る力」です。生まれた環境によって、描ける夢が違うというのは現実としてあると思います。それは夢見るものに接点を持てたり、支援をしてくれる環境の有無などの差があるからです。しかし、日本ではさまざまなものに恵まれながらも夢を語りたがらない若者が増えていると聞きます。それは日本が抱えるさまざまな問題に起因しているのかもしれませんが、とても寂しいことです。
一方、裕福でなく環境に必ずしも恵まれていなかったとしても、夢をはっきりと口にできる彼らのような若者もいます。夢を語れるということは、その人自身の強さ、前を向いて生きていく力なのではないでしょうか。そんなことを彼らが教えてくれた気がします。そこに希望を感じました。
夢を描くよりも目の前の現実を見つめなければならないような環境や状況にある子どもたちが信愛塾にも多くいます。だからこそ彼らが夢を見ることや、可能性を感じられる環境をつくることも私たち大人が担うべき役割であると思います。
また夢を描くのは子どもだけではありません。信愛塾でもみんなで大きな夢を描いていきたいです。信愛塾は来年で40周年を迎えます。そのときに改めて、ご報告ができたらと思います。
- Kくんへのエール
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横浜大通り公園から一本通りを入った小さな公園、中国の弦楽器、二胡を奏でる老人がいる。物憂げな音色、おそらく中国人?彼は遠い故郷を思い出してでもいるのか、木の葉が色付き始めた昼下がりの公園で保育園児を前にひとりで演奏していた。
歩けばいつでも多くの外国人に出会う町、横浜でも突出して中国人が多く住む町に中学生のKは幼いころから家族3代で住んでいる。同じ中国系の人としか交流がなく、彼自身学校での友人はほとんどが中国人、家庭内で話す言葉は福建語だが翻訳しようのない独特な言葉、ほぼ家族にしか理解できない言葉なので、それを家庭語と言うらしい。姉、妹とは日本語と家庭語の入り混じった言葉で会話している。
そのKくんが先日、担任の先生から電話でこっぴどく叱られた。理由は彼が放課後の学習会をサボッタことによるものらしい。彼は残念なことに担任の先生の言っている日本語がよくわからなかったと言っている。日常的にはよく日本語を話せる彼だが、怒られ、気持が萎えている時には何も答えられなくなるのだろう。湧き上がる怒りを抑えきれなかった彼は、その時、目の前にある鉛筆を折った。先生にきっちりと自分の気持ちを伝えられない自分自身にも腹を立て、どうしようもない思いが鉛筆を折り、テーブルを叩く行為になったのだろう。彼のやり場のない怒りを唯一人受け止めてくれたのが信愛塾スタッフの中国人大学生だった。どうしようもない気持ちを共有してくれる存在は大きい。その場、その時を共有し、一緒に育ちあう場の存在は大切だ。安心して過ごせる居場所や大人とのかかわり、たくさんの経験を積む中で子どもたちは育っていく。
Kが言った。「青年になりたいよ!!たけちゃん!だってカッコいいじゃん」そうだねカッコいいね!!と私も思う。Kくんには誰にもましてステキな青年に育ってほしい。優しいKくんだから大丈夫。必ずステキな青年になれると思うよ、と心の中でエールを送った。
- 透明人間だった私
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こちらの会報では初めまして。フィリピン人のマリアーノ・ルアンです。現在大学3年生ですが、信愛塾には中学生の頃からお世話になっています。
先日、信愛塾を通じて子供たちに自分のことを話す機会がありました。新潟からはるばる修学旅行でやって来た小学生の彼らに、果たして私の今までの人生の一部でも理解してもらえることはできるのかという不安もありましたが、無事になんとなく、ふわっと伝わったみたいです。
「小学四年生の頃、私は透明人間になりました」という切り出しから話は本題に入りました。我ながら恥ずかしい言い方ですが、他に言いようがありませんでした。小学四年生の時分に在留資格を失い、その後はオーバーステイの身で入管の目から逃げ隠れしながらの日々。在留資格が無いと公的な手続きが取りづらく、保険証も貰えなければ働くことも出来ません。もしかしたら高校や大学に入ることだって出来ないかもしれないという恐れもありました。しかし中学生の時に信愛塾や資格取得を支援してくださる先生方と出会い、数年間に渡っての入管との話し合いを経て、「母が帰国し私が大学に入ること」を条件に私にのみ在留資格が与えられました。
外国籍だけど日本語しか喋れない、海外で住んだことがない、日本の学校で学び日本の習慣の中で過ごし日本の文化の中で生きてきた、生まれも育ちも日本なのに、日本人ではない。そういった、外国と日本どっちつかずな曖昧さで、それこそ透明な立場にいることが、子供の頃の私にとってどれだけ寂しく苦しいものだったのか。自分の在り方にどれだけ悩んだか。
子供たちはそんな話を聞きながら、遠い夢を見ているような表情をしていました。
質疑応答の時間で集まってくれた子供たちに聞いてみれば、やはり周りに外国籍の人は滅多にいないどころか、外で外国人を見たことがないという子さえいたので「そりゃあ理解するには難しい話だわ。夢みたいに感じたってしょうがないよな」と自分は思わず笑ってしまいました。
外国籍の人の中でも私のような人に出会うことは恐らくそう多くはありません。けれど小学生の彼らがこれから先、外国人、そして日本に住む外国籍の人と出会う確率はとても高いと思います。
だからこそこの日、私や王さん、福島さんの話を聞いて少しでもお互いの距離を考える機会というのは小学生の彼らにとってとても大事なことなのだなあと感じました。
日本に在住する外国籍の人はもちろん、外国に繋がりがあるハーフやクウォーターの人からすれば、「外国」という先入観からの付き合いは、時としてこちら側への大きな圧になりかねません。
もしそういった人と出会ったときは、国や言葉の先入観や壁をなるべく無くして、その人自身を見て欲しい。これが、私が一番伝えたかった言葉です。きちんとした場で大勢の人を前にして今までの人生を話す機会というのは実は初めてでした。
緊張はしましたが「初めて知ることだらけでとても驚きました」と大人の方から声を掛けてくださったこともあり、知る側と知らない側、双方にとってとても良い経験になったと思います。そのお力添えが出来て本当に良かったです。
改めて、この度は素敵な場にお呼び頂き有難う御座いました。どうか、少しずつでも私達への理解が深まりますように願います。

