会報誌「ともに」横浜だより

21.2.6 No.58

日本の新聞に思うこと ― 日韓関係をめぐって 立教大学教員 石坂浩一

 今に始まったことではないが、この頃ますます日本の新聞がおかしい。一部で頑張って記事を書いている記者たちは存在している。だが、そうした人たちをターゲットにしたバッシングや攻撃がやまない。ヘイトスピーチの報道に対して、名誉棄損だと称して記者個人を訴える訴訟まで起こっているという。マスコミが委縮する社会をそれほど望んでいるのだろうか。
 インターネットの世界で右派の声が圧倒的になっていることが、その基底にあるのだろうが、それを下支えするような社会的雰囲気もまたできてしまっているのだろう。とりわけ、韓国報道についてそうした傾向が顕著だ。
 日本のマスコミの多くが抱いている、韓国のムン・ジェイン(文在寅)政権についての決めつけの第一は「反日」である。そもそも「反日」とは何だろうか。日本を批判するのがすべて反日であれば、日本中、世界中に反日はあふれていることになるだろう。それをひとくくりにして「反日」と決めつけるのであれば、インターネットの世界で「在日認定」とか「あいつは韓国人」を決めつけるのと、変わりない。マスコミがそれでいいはずがないのである。ところが、侵略や植民地支配の歴史を批判する立場をすべて「反日」とくくってしまっては、理性的な話し合いが成立しなくなってしまう。
 韓国政府の「反日」を問題にする人びとにとっては、かつて植民地支配した韓国から文句を言われるのは気に入らないという本心があるのだろう。ヘイトスピーチの過程で出てきた言葉の中で、「韓国人を黙らせろ」という言葉があった。相手を抹殺したいともとれる、恐ろしい言葉だ。
 2020年12月29日の『読売新聞』朝刊は社説で以下のように主張した。日本は2015年12月の日韓合意を「誠実に」実行してきたが、ムン・ジェイン政権は「反日世論をあおる」「反日プロパガンダをまき散らす団体」に迎合するなど「不誠実極まりない」と。だが、1993年の河野洋平官房長官談話で、日本軍「慰安婦」問題について「歴史の教訓として直視」し、教育を通じて後世に伝えていくとしたことは、この合意では一切触れられていない。合意自体に不十分な点があることは事実ではないか。
 日本のマスコミの文在寅政権に対するもう一つの決めつけは、「親北朝鮮」である。ムン・ジェイン政権の対北政策について、ここでは詳細に述べる余裕がない。だが、これについてはキム・デジュン(金大中)政権を思い起こせば済む。キム・デジュン大統領は就任の際に、北朝鮮に対する政策として、武力挑発は許さず、それを抑えることのできる抑止力を持つ、そのうえで北朝鮮が開放へと向かうよう説得する太陽政策を取るべきだと述べた。キム・デジュン大統領もそれほど甘い考えで北との交渉を試みたわけではない。
 この政策は一貫性をもって継続され、クリントン政権の協調もあり功を奏したが、ノ・ムヒョン(盧武鉉)政権は核開発を進める北朝鮮に相当に悩まされた。その当時の大統領府にいたムン・ジェイン大統領が、南北関係の難しさを知らないはずがない。ムン・ジェイン大統領は何があっても朝鮮半島での戦争だけは回避しなければならないという切実な状況で南北の対話を試み、紛争を防ぐためにあらゆる努力をしてきた。
 韓国政府が「親北」なのではなく、米日など関係国が(トランプ政権は例外だったが)無策の無視政策のままなのである。
 1月8日、韓国ソウル中央地方法院が「慰安婦」問題で日本政府に賠償命令を下した。これに対し菅義偉首相は、日韓の請求権協定で解決済みだとコメントしたが、日本政府の従来の立場からしても、これは事実に反する。日韓条約当時、日本軍「慰安婦」問題は議論の対象に含まれていなかったからこそ、2015年の日韓外相による合意が導かれたのである。解決済みであったとすれば、しなくてもいいことに日本政府が応じ、10億円も支払うことを約束したことになる。そうした矛盾を指摘するメディアも見受けられなかった。
 『東京新聞』1月17日朝刊には、ソウル大学のパク・チョリ(朴喆煕)教授の「『歴史』を乗り越えて」という提言が掲載された。パク・チョリ教授は保守派の学者だが、現実政治の複雑さを解決しようとする興味深い発言をする人だ。このコラムでは、日韓両国が「複雑な現実の単純化」をしてきたことをとらえ直し、歴史問題の政治化に終止符を打つための「次世代のための社会的学習の場を構築すべきだ」と主張している。モニュメントや記念館が作られれば「歴史問題の克服が始まる」出発点となるのではないか、という問いを投げかけている。
 日本のマスコミが、こうした提言をやりとりし活発な議論をする場を提供してくれればと思う。それでこそ、信頼を取り戻し、読者を呼び戻すことができるだろう。

台湾に行って五か月たちました 信愛塾ボランティアスタッフ 横川蓮奈

 私は一昨年から台湾の大学に行くために中国語を学び始め、去年高校を卒業し九月から台湾に渡り、語学学校で中国語を学んでいる。先月国立台湾大学への受験も終え今は結果待ちである。毎日三時間少人数レッスンを受けた後、クラスメートのアメリカ人たちと台湾を探索したり、語学学校が大学付属のことから大学の空手や日台交流サークルに参加したり、台湾料理屋さんでバイトをしたりする日々。今回はその中で台湾の子どもたちの話をしようと思う。
私は信愛塾でのボランティアをきっかけに、子どもと関わる仕事をしたいと思うようになり、行く前から台湾でも信愛塾のように子どもを支える団体はないかと探していた。そこで知ったのが台湾の南東部にある「子どもの本屋(孩子的書屋)」というところだった。
 台湾は出稼ぎに行っている家庭が多く、台北を離れると、祖父母に預けられている子供たちが多い。「子どもの本屋」はそのような子どもたちや親が遅くまで仕事をしている子どもたち、シングルペアレントの子どもたちの安心できる第二の「家」となって勉強をみたり、音楽やパン作りなど学業以外のことをする授業を毎週行ったりしているところである。
 語学学校が冬休みに入ってから、二週間半私はここで泊まらせてもらいながらボランティアをさせてもらった。基本午前は自由に過ごしたり、庭にある畑の作業を手伝ったりし、四時からは学校から子どもたちが本屋にやってくるので、一緒に話したり、ご飯を食べたりする。
 私が一人で「子どもの本屋」に泊まるのは不安だろうから、と職員が子どもたち二人に交代で一緒に泊まってもらうようにお願いしていたようで、一日目から中学一年生の子と泊まることに。しかし、翌朝、学校なのに目覚ましばかり鳴って、本人は起きるそぶりもない。聞くと体調不良だから学校に行かないという。二日目の朝、元気になったと言っていたが、やっぱり体調が悪いとそのまま布団に潜り込んでしまった。私は彼に無理に学校を行かせるべきなのか、全く分からなくなり、途方に暮れた。こんな時は竹川先生に相談すればいいと思いつき、この状況を相談すると、「子どもには子どもなりの行きたくない理由、意味があると思います。その子の話をいっぱい聞いてあげてください。話さなくても傍らにいるだけで大丈夫です。安心は特効薬と同じですから」と返信が帰ってきた。
 そうだった、先生たちそうして子どもたちの傍にいたなあ、と信愛塾の様子を思い出し、三日目、やはり学校に行きたくないという彼の布団の横でそのまま座ってみることにした。帰ってくるのは無言。何となくただ放っておくことはできず、三日休んだら学校に行きづらくなるかも、今ならまだ間に合うよ、と四日目は学校に行くと台湾版の指切りをした。理由はわからないが彼は四日目学校に行き、笑顔で本屋に帰ってきた。
 彼は本屋では一番やんちゃだからなぜ学校を休んで、なぜ学校に行き始めたのかもわからない。もともと子どもたちに関わることをしたいと思ったが、この件では私のほうが泣きたいよと思い、私には子どもたちの仕事に合わないと思いながら台北に帰ってきたが、先週その彼から「最近どうしてる?元気?また来てね~」とラインが送られてきてやっぱりもっと関わりたいと思ってしまうのだった。
 二週間半全く中国語しか通じないところにいるのも大変だった。小学生は「外国人のお姉さん」に興味津々だが、中学生はそうにもいかない。周りが何を話しているのかわからない、冗談についていけないことは当たり前。みんなと机に座るのはいいが、笑っていることが精いっぱい。あ、言葉が通じないとこんな風に感じるのか、とふと信愛塾に通う子どもたちが思い浮かぶ。彼らもこんな風に感じたりするのかな。言いたいことが言えないと、自分自身が表面的になっていく気分になる。
 こんな風に子どもに振り回されてしまう私だが、今のうちに振り回してもらって、近いうち理不尽にも振り回されてしまう子どもたちを受け止められるようなタフさをみにつけられたらいいなと思うこの頃である。