会報誌「ともに」横浜だより

21.9.24 No.61

社会に出ていく若者たち ともに編集部

 日本に暮らす外国人は今や288万人にもなる。国籍も中国や韓国・朝鮮、ベトナム、フィリピン、ブラジル、ネパールなどと多国籍化してきている。学校でも国際理解教育・国際教室が取り組まれたり、自治体でもそれなりに多文化共生にも力を入れてきている。でも、子どもたちに、それがしっかりとしたメッセージとして届いているのだろうか?差別はなくなってきているのだろうか?ここ数年のことだが、学校を卒業し社会に出ていった子どもたちが追い込まれていると感じられるようなことが起きている。偶然かもしれないがそうしたケースにいくつか直面してきた。マンションから飛び降りようとした子、夢を描くことすらできない子、補導されていく子、やくざの世界に入っていった子、就職先が見つからない子、大人を信用しない子、家を飛び出し未だ行方が分からない子、いきなり借金を抱えてしまった子、DVや性暴力、メンタルで苦しむ子、人を愛することや愛されることを経験していないという子など様々だ。
 外国籍の子どもたちが抱えている課題、とりわけコロナ禍での伴走型相談は在留資格も絡み深刻だ。もちろんプライバシーを守らなければならないので多くの人に個々のケースは伝えられない。しかし事の大切さは理解して欲しいと思う。伝えなければ広く理解を得ることはできないからだ。
 高校を卒業した後で追い込まれていく若者たちについて何が問題なのかをスタッフで話し合ってみた。

・信愛塾の若者たちの状況を聞いて90年代に「高槻むくげの会」を訪ねたときに聞いた話を思い出した。地域で子どもたちが荒れていて、次から次へと事件が起きた。バイク事故や傷害事件など新聞に出てくる事件を一つ一つチェックし、事件が起こった地域を地図上に虫ピンで刺していった。すると、そのほとんどが在日の多住地域であることが分かった。これは何かあると考えた若者たちは、そこに自己肯定感を持てず生きている子どもたちの姿を見出した。何とかしなければと行政との話し合いが始まった。これが「高槻むくげの会」設立のきっかけだったと言う。学校を卒業した若者たちの話を聞いて、どんどん追い込まれていく若者たちの姿に何か共通したものを感じる。
・もちろんネガティブな話だけではないし、社会に出て活躍している子もいるので一概にということではないけど、困難に直面している子が何人もいるのはわかる。
・MもOもAもそうだけど、卒業したといっても放り出されてしまったみたいな感じもする。一歩社会へ出ればいきなり困難に直面する。相談する人も場所もなくなってしまう。みんな孤立していて居場所がない。
・「友達がいない」というのはよく聞く。「友達はネットの中の友達だけ」とか。「孤立している」「寂しい」「居場所がない」などと心の中で叫んでいるけど、それをキャッチしてくれる人がいない。ネットの「友達」だって怪しいし危険なケースもいっぱいあるのに。
・スタート地点でハンディを背負ってしまった子もいる。例えば高校を卒業し専門学校に通うことになったAは2か月も立たずに学校に通わなくなり、入学金や授業料などはすべて「奨学金」という借金に変わった。学校を出たらいきなりマイナスからの出発になってしまった。
・もちろん本人の責任もあるし、やる気や能力という面もあるかもしれない。日本人だって同じような困難を抱えている子もいる。けれど、言葉がよく理解できない母と二人だけで育った彼の成育過程も関係しているように思える。
・Uは「私も大学に行きたかった」「大学に行って勉強したかった」と語っていた。高校を卒業してから、今ダブルワークをしながら必死に働いているけど、働いて得たお金は、親が負った借金の返済と母国に暮らす弟妹への送金で手元に残るお金は何もないという。もっとも輝かしい年ごろなのに、Uは夢を語ったことがない。
・学習障害や発達障害の子もふえている。外国籍の場合、日本語が理解できないことと学習障害や発達障害であることとの判断が難しく、(保護者の反対もあるが)個別支援学級を選択するとか、特別支援学校へ繋げるとか、幼少期の判断が影響している場合もある。
・国籍の違いや、民族、生活文化の違い、またそれに起因する差別や偏見の問題も敏感に感じている。出身国のことがニュースなどで話題になったりすると悪く言われているのではないかと気にし、自分の思いを言葉化できない。差別されたり孤立してしまうことを極度に恐れている。
・子どもたちは大人を信用していない。大人は差別の問題に向き合ってくれてない、学校も差別の問題を避けていると感じている。子どもがいくら言ってもオブラートに包んだような言葉が返ってきてしまい、当たり障りないものになってしまう。子どもは隠さなくてもいいことを隠そうとする。自己防衛かもしれない。
・子どもは素早くキャッチする。肌の色とか、差別事象とか。持って生まれたもの、変えようのないもの、性、自分で選べない肌の色、目の色。多くの人と違うものを持っていると気づいたとき生きにくさを感じてしまう。
・教育として差別をもっとしっかり考え、差別をなくそうという意識の共有化ができてない。
・じゃあ社会は変わってきたのだろうか?コンビニなどで働く外国人を見かけるようになったが、果たして共生の社会になってきたと言えるだろうか?企業での正規社員や公務員や外国籍教員も増えているようには思えない。銀行とかデパートなどでもほとんど見かけない。留学生や技能実習生への差別的扱いは一向に改善されてない。企業にとって必要な「労働力」としか見ていない。
・欧米系の白人とそうではない人を見る目が違う。アジア系の人に対する見下したような視線も感じるし、実際に嫌な思いをしたと訴える子もいる。
・排外主義もなくなっていない。ヘイトスピーチやネット上の差別も激しさを増している。企業だって公然と差別をしたり居直ったりしている。社会が差別にどう向き合えばいいのかがわからなくなっているのではないかと思う。
・政府が明確なメッセージを発信していない。行政も企業もマスコミも社会が差別をなくしていくんだという強力なメッセージを出していない。マイノリティは自分を隠す。話を避ける。いつ自分に差別が降りかかってくるかと恐れている。

 小さい時に日本にやってきたり、あるいは外国人(ニューカマーの)の父や母を持って日本で生まれ、学校生活を終えた子が社会へ巣立っていく時代となってきた。ところが学校生活を終え一歩社会へ出ようとするところで、就職差別や入居差別、人との出会いの中で差別を感じ、つまずき、打ちひしがれ、悩み、心を病んでいく若者も増えている。
 いくつかの要因が考えられる。一つは在留資格の不安定さ。非正規滞在であれば労働や医療や住民サービスから排除されてしまうケースが多い。在留資格によっては労働が制限されたり、安定した職場(例えば社会保険を完備したような)に就けない子もいる。もう一つは言葉の壁。ボキャブラリーの足りなさ、(役所からの文書など)正確に情報が伝わらない、家庭内で使われる母語と日本語とのギャップ、日本語の理解度からくる親子関係の逆転など言葉の壁から派生するものも多い。さらには生活文化の違いや社会制度の不理解などからくる自信のなさ(精神的不安定感)。信用が得られにくい(例えば日本人の保証人を求められる)と感じたり、あるいは人間関係がうまくとれないとか、同調圧力の中で自分のアイデンティティへの迷い、揺れを感じたり、スマホ依存やゲームへの逃避、心から理解しあい語り合える(同胞ではなく日本人の)友達がいない、少ない。祖父母や親戚など困ったときに頼れる人がいないことなども挙げられる。さらには経済的格差や金銭的問題を抱えている子もいる。母国に暮らす家族への送金などで金銭的苦労を抱えたり、親から生活を支える「働き手」として期待されてしまう子などもいる。そして差別や偏見。外国人に対する社会の見方や偏見、入居や就職活動などで受ける差別など。こうしたいろいろな要素が複合的に絡み合い困難なものとして立ち現れてくる。
 もちろん外国人だからと言ってネガティブな要素ばかり抱えているわけではない。複数の視点から物事をとらえることができる子どもたちは多様性を内包している。困難を乗り越えた子どもたちは、たくましさや他者への優しさをもって成長している。信愛塾からも、社会で力を発揮し活躍している若者も大勢出ている。とかく外国人の子どもたちを「支援する必要のある存在」とみなしがちだが、互いに学びあう視点をもつことで「共に生きる存在」として世界を広げることができる。今求められているのは負っているハンディを少なくし持てる力をそれだけフルに発揮し活躍しやすくする、そうした仕組み作りではないだろうか。
 ここに出てくる話は外国人が多く住む地域に限った話ではない。少子高齢化の中で、地域の特性を生かした外国人との共生の街づくりが各地で始まっている。自治体もスローガンとしての共生から、具体的な生きづらさを一つ一つ取り除いていく、中身のある共生が求められてきている。実態調査を行ったりヒアリングの機会を設けたり、街づくりに外国人住民の参加を求めたりする仕組みが作られたりしている。もちろん制度的差別は断じて許されないし、企業や自治体も多様性に富んだ人材活用(ダイバーシティ)などをもっと積極的に行っていくべきだろう。また、信愛塾のような「居場所」を兼ねた外国人相談スペースなど、地域の特性を生かした取り組みも求められる。共生は実践が伴わないと単なるスローガンで終わってしまう。それは常に自らを戒める言葉でもある。でもその先には違いを認め互いを尊重しあえる心豊かな未来があると私たちは信じている。