会報誌「ともに」横浜だより

21.12.17 No.63

外国人差別のルーツ-民族と人種のいま- 信愛塾理事 久保 新一

 外国人差別のルーツは、民族差別や人種差別である。
 民族とは、また人種とはなにか? 民族は、独自の言語と文化をもつ人々といわれ、通常・国を構成する単位といわれてきた。しかし、単一民族によって構成されている国はまずない。言語と文化を奪われた少数民族(日本の場合、アイヌや沖縄の人々)を含む多民族国家がほとんどである。アメリカのように移民によって成り立っている国もある。
 民族については、60年代後半、言語や文化の構造研究によって、すべての言語や文化は対等なものであり優劣はないことが示され、それまで先進言語・文化とみなされてきた西洋言語・文化も他の言語・文化と変わらない対等なものであるということになった。
 一方、人種は、白人、黒人、黄色人種など、皮膚の色や身体的特徴をもとに独自のルーツをもつものといわれてきたが、70年代以降、生物学のDNA・ゲノム研究の発展とその考古学への応用によって、80年代後半、地球上に現存している現代人のすべては、20万年前のアフリカで誕生したホモ・サピエンスの子孫であることが科学的にあきらかにされた。
 つまり、人種や民族に生物学的(科学的)な根拠はなく、肌の色や体形のちがいは、長年居住していた地域の環境のちがいによるもので、外見のちがいとは異なり中身は同じであることが判明した。人類みな兄弟姉妹だったのである。
 生物学(生命科学)は、第二次大戦後に発展した最新の科学であるが、50年代なかば遺伝子(DNA)の二重ラセン構造の発見による分子生物学の成立をきっかけに、70年代に遺伝子全体(ゲノム)の研究が進み、2000年代初頭には人間の遺伝子(ヒトゲノム)の全体が解明された。
 生命科学によれば、植物も動物もヒトと同じDNAを持つ仲間であり、また、一人ひとりの人間は、親子・兄弟・双子をとわず、全てちがうDNAをもつ唯一無二の存在であり、みながちがうという点で同じである存在なのである。
 今まで、私たちは、先進国・後進国、先進文明・遅れた文明、優れた人・劣った人、正常者・障碍者など、を常識とする世界に生きてきた。しかし、そうした常識には科学的な根拠はなかったのである。さらに、人間が文明生活を享受する手段として利用してきた自然(動植物)は、実は人間と同じDNAを持つ仲間であることもあきらかになった。
 いま、私たちは異常気象・温暖化危機や地球環境問題という人類存亡の危機に直面している。これは、人間が文明生活を享受するために、自然を好き勝手に利用してきた、人間中心主義のツケがまわってきたことにほかならない。
 人類が直面する危機をのり切るためには、いままでの常識をあらため、ひとはみなちがう、ちがうという点で同じ兄弟姉妹であり、自然(動植物)も人間が生きるための手段ではなく、仲間である、という新しい考えを常識にして生きる時代に変わらなければならない。
 信愛塾でともに学ぶみなさんは、こうした新時代をひらく「さきがけ」なのです。

43歳の信愛塾、そしてこの先は? 信愛塾スタッフ 大石 文雄

 この秋に43年になる信愛塾であるが、これまで多くの人が関り、いろいろな思いをもって支えてくれた。40周年の時に信愛塾の歩みを「記憶と記録」という記念誌にまとめてみたが、それからも3年以上が過ぎてしまった。これからの信愛塾を予測することはできないが、今大きな課題を抱えていることは明らかである。少子高齢化の中でも日本に暮らす外国人がますます増え、各地で信愛塾のようなスペースが求められてきている。いつでも気軽に駆け込んでこれる「居場所」と伴走型の外国人相談。官制でない民営型のスペースだ。在日コリアンの子ども会として出発した信愛塾であるが、今やコリアンだけに限らず国籍や地域も多様化している。差別や偏見をなくす取組も欠かせない。ヘイトスピーチなどの差別をなくす取組の必要性は高まってくるばかりだ。「共に生きる」には差別との共生はあり得ないからだ。反差別、共生社会実現を目指す地域の拠点としての役割も大きい。外国人との共生だけでなく、人権問題やグローバルな社会を理解していくための研究機関としての役割も求められてくるだろう。レイシズムが激化してくる中であっても共生社会の核となるような場の存在はますます重要性を増してくる。学校や行政はもとより関係機関や諸団体との連携も求められてくる。スペースやスタッフを維持していくためのしっかりした財政基盤は欠かせない。そして次世代スタッフ育成の取組も切実な課題である。現場を担っていく人がいなければすべてが言葉で終わってしまう。さらには地域に暮らす外国人子どもたち(大人であっても)にも学ぶ機会を保障していく活動の充実である。信愛塾を拡大させることを考えているわけではない。ただ、信愛塾を必要とする人々が増えてくるのは確かだろう。毎日、忙しさに追われ先のことを考える余裕すらないが、先を見つめていくにはこうした議論を少しずつ始めていくしかない。

学び直すということ 信愛塾スタッフ 福島 周

 「私は子どもの頃からこの生活がこれ以上良くなる事はないと思っていた。良くならないのに勉強しても無駄だとさえ思っていた」。学び直し教室に通っているある40代の受講生の言葉である。彼女が信愛塾で学び直しを始めて3年半が経過した。週に一度、1時間、月に3回ほど学習支援の前の時間に勉強している。開始当初は漢字検定などの資格を取得して仕事につなげていく、といった具体的な目標を設定して勉強していくことを考えていた。そのため漢字のドリルを解く、計算問題を繰り返すなど基本的で、そして検定を意識して勉強を進めていった。
 半年ほど経ち、学び直しの時間が定着してきた頃、受講生に「ともに」の原稿を書いてみることを提案した。そこに綴られていたのが冒頭の言葉である。そして「子どもの頃から夢を見ることがなく、努力もしてこなかった。それでも勉強を始めたのは、この先、自分に少しでも可能性を感じたいと思ったから」。そういう思いを抱えて勉強をしていたことを知り、必要なのは合格や資格ではないことに気づかされた。それから勉強の方向性を変え、今は天声人語を使ったり、算数も文章題に取り組んだりして勉強を続けている。
 今年最後の学び直し教室で受講生は「可能性を感じられるようになったとはまだ思えない」けど「掛け算ができるようになったことは自分の中ではすごいこと」と話していた。自分に可能性を感じるための作業は何に可能性を見出すか、そもそも見出だせるかも分からないだけに困難で時間はかかるかもしれない。けれど変化は起きている。変化の蓄積が少しでも何かの可能性につながるよう、来年も受講生とコツコツと続けていきたいと思う。