会報誌「ともに」横浜だより

17.6.15 No.36

「帰る」場所としての「信愛塾」
  ―20代青年たちの経験から―
加藤 丈太郎 (早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士課程)

●信愛塾との出会い
 私は2008年に信愛塾に出会った。当時、外国人支援団体APFS(ASIAN PEOPLE’S FRIENDSHIP SOCIETY)において、フィリピン出身者を中心とした非正規滞在(在留資格を持たない)家族にどうすれば在留特別許可(法務大臣が裁量により在留を認めること)が認められるかを模索していた。そんな折、以下の新聞記事を目にした。
 マヌエル・サンペドロさん(41)は昨年12月、半島の東側の町オリオンに、横浜から21年ぶりに戻ってきた。超過滞在が見つかり、一家で強制送還された。当初、両親と弟2人が住む実家に、親子6人で転がり込んだ。(朝日新聞 2007年10月3日)
 強制送還された子どもたちがいると知った。その子どもたちは「母国」に適応出来ずにいるはずだ。それを法務省に示せば、今、目の前にいる子どもと家族たちに在留特別許可を獲得できるのではないかと考えた。マヌエルさん家族を支援していたのが信愛塾であることを知り、信愛塾に飛び込んだのであった。
 センター長の竹川さん(竹ちゃん先生)が出迎えてくださった。私が来訪している間にも、電話が矢継ぎ早に鳴り、外国出身のお母さんたちも事務所にやってくる。「竹ちゃん」先生が事務所の中を走り回っているのが今でも強く印象に残っている。竹ちゃん先生に、マヌエルさんの連絡先を教えてもらい、2008年5月、フィリピンに調査をするべく渡航した。
●「母国」に「帰る」
 フィリピンでは、マヌエルさん、長男・マヌエルJRくん、次男・オーランドくんに無事に会えた。マヌエルくんは小学校5年生、オーランドくんは4年生までを日本で過ごしていた。私が訪問したタイミングは、強制送還から約1年半後であった。日本語でインタビューをするつもりであった。しかし、実際には、子どもたちはほとんど日本語を発しなかった。これは私にとって非常に衝撃であった。
 聞くと、マヌエルくん、オーランドくんは、小学校1年生のクラスに入り、フィリピンで勉強をやり直してきた。近所の友達たちは彼らより身体が一回り以上小さかった。私は彼らの「帰国」してからの苦労に思いを馳せた。10年近く話してきた日本語が発話できなくなるくらい、「母国」に「帰る」ための努力をしてきたのだろうと。そのような中でも、彼らは「中村町」「竹ちゃん先生」という単語を発した。「母国」に「帰った」後も、彼らの心の中には「信愛塾」が生きていたのだ。
●外国出身者にとって「帰る」とは
 日本に戻った後、私は、マヌエルくん、オーランドくんを含め、フィリピンに強制送還された子どもの状況をまとめ法務省へ示した。その後、APFSにおいて、2009年12月~2010年7月までの間に、11家族37名に「在留特別許可」を獲得した。
 マヌエルくん、オーランドくんがフィリピンにおいてタガログ語で学び直す一方で、私の周りの子どもたちは、国籍こそフィリピンだが、話すのは日本語という中で生活をしていた。在留特別許可を獲得するまでの間、入国管理局は子どもにも「フィリピンに帰りなさい」と言う。しかし、私はこの言葉に強烈な違和感を覚えた。子どもたちは、フィリピンに「行った」ことがないのである。「帰れ」という表現が果たして適切なのかと。
 「在留特別許可」を求める過程で、ある子どもは「僕は日本で生まれたから、僕の未来は日本にある!」とプラカードにその主張を記した。一方で、「フィリピンに帰ったら友達がいない」「フィリピンは怖い」と言う。日本を肯定し、母国を否定しないと、在留特別許可は認められないのだろうか。私はそうであってはならないと思う。日本はもちろんのこと、親の国を子どもたちが肯定できてこそ、子どもたちが健全に発達できると信ずるからだ。
●非正規滞在から介護福祉士へ
 2010年7月までに在留特別許可が得られず、その後も在留特別許可を求めてきた非正規滞在の家族がいる。2017年5月、フィリピン国籍、日本生まれ日本育ちの青年に「特定活動」(介護福祉士)の在留資格が認められた。彼は在留資格がない中、介護福祉士を養成する専門学校に通い、介護福祉士の資格を取得した。
 彼の両親は、20年以上を日本で過ごした。家族での在留を求めてきたが、法務省からの答えは「親が帰国するのであれば、子どもには在留特別許可を認める」ということだった。親は、子どもの将来を考え、自らの帰国を決断した。親の帰国と引き換えに、子どもの在留を認めるという現行の運用で果たして良いのだろうか。彼は日本、親はフィリピンでこれから離れて生活をしていくのであろう。
しかし、将来、彼にとって、日本はもちろんのこと、フィリピンも心が「帰る」ことができる場所であって欲しいと願う。
●「信愛塾」への期待
 今、信愛塾には、大学生の外国出身スタッフが育っている。マヌエルくん、オーランドくん、介護福祉士になった青年、外国出身のスタッフはみな同年代である。それぞれにそれぞれの「帰る」場所があって良いのだ。そして、外国出身のスタッフにとっては、「帰る」ことができる場所がきっと「信愛塾」なのだろう。親の母国と日本の間で色々と葛藤をしてきたであろう外国出身のスタッフが今、「信愛塾」にいることに大きな価値がある。今後、ますます活動が発展するよう、心から応援している。

信愛塾の子供たち ボランテイアスタッフ  朴静子

 一週間に一回、火曜日に信愛塾にいきます。最初の頃は、子供たちへの接しかたがわからなく、私自身の子育て中の時のように、叱ったり、甘やかしたり、私の基準でいいのかと悩んでいました。そのうちにそんなことを考える暇もないくらいに子供たちの元気に圧倒されながら信愛塾での時はすぎていきます。
 そのようにして、もう2年が過ぎました。毎年、新しい不安そうな子供が入ってくる一方、すこし大人びて、何か考え始めている(悩みはじめている)様子の子どもを見ると、いじらしいような、励ましたいような気になるのです。この子たちに、自分というものを自分で自覚して、目標を定めることが出来る力をつける事が出来ればどんなにいいでしょう。
 “ただいま~”と言って信愛塾に帰ってきて宿題をして、公園で遊んだり、ゲームをしたり、話をしたり、そして時々は笑わされることもしばしばです。子供たちを見ていると、この子はどんな大人になるのかしら?と思うことがあります。大方は、私自身と同じような、普通の大人になるのでしょうが、この子は、きっと商売をすれば成功しそうだとか、この子は、素敵なお母さんになりそうだとか、この子は研究の道に行けばよさそうだとか、想像します。たくさんの才能を持っていても環境が整わないと、それを開花させることはできません。もちろん環境が整っているだけで自分のやりたいことを、自分の進みたい道を進むことは、難しいことだとはおもいますが、もっとより良い環境が子供たち皆に整えられればと願っています。
 反面、よい環境とはどういうものか?とも考えます。経済的なこと、家族的なこと、さまざまでしょうが、だれか、私を心配してくれる人がいる。私を気にかけてくれる人がいる。ということは多分、一人一人にとって、とても心強いものだと想像します。子供たちが大きくなって、辛くなったとき、信愛塾を思い出して、私を心配してくれた人がいたということを思い出す時、きっと、懐かしさとともに、頑張ろうという力が湧いてくるような思い出になればいいな、と思いながら、信愛塾で役に立っているのかどうか、私自身が元気をもらっているのです。