会報誌「ともに」横浜だより

19.4.22 No.47

多国籍保育の現場から 大倉山保育園園長 南雲早苗

 2~3年前にも原稿を書かせていただきました。その時には、寿福祉センター保育所で外国籍児とそのご家庭を受け入れてきた経過の中で感じたこと、難しかったこと、そしてそのことにどのように向き合い取り組んできたか、以前と比べ変化してきたことなどについて、主に子どもとの関わりにスポットをあてて書かせていただいたかと思います。その後も保育所では様々なできごとがありました。本当に毎日がドラマチックなので、書かせていただきたいエピソードは山ほどあるのですが、数カ月前に保護者とのやり取りで何とも言えない気持ちになったことがありましたので、そのことについて触れたいと思います。
 昨年度、保育所に在籍していた外国籍家庭のお子さんが、ご家庭の事情により遠方へ引っ越すことになり、年度途中で退所されていきました。
 登園最終日の朝、いつもならお子さんを預け挨拶を交わすと、すぐに玄関を出ていくのですが、その日は何か話したそうにしている様子が見てとれました。「今日で最後ですね。寂しくなります。」と声を掛けると、ママから「本当はずっとこの保育園に通いたかった。こんなに先生たちが優しい保育園はありません。引っ越して、子どもが入る保育園か幼稚園の先生に受け入れてもらえるか心配です。」と返ってきました。「きっと大丈夫です。優しくしてもらえますよ。ここの保育所だけが特別だなんてことはないと思います。」とお伝えしました。「でも先生、私は外国人ということで嫌な思いを沢山してきました。保育園の見学にも沢山行きましたが、ちゃんと話を聞いて優しく教えてくれたのは、ここの保育園だけでした。本当に大丈夫でしょうか・・・」と。その問いに対して私は「そうでしたか。色々と大変な思いをされてきたのですね。もし何か相談したいことがあった時には、いつでもここに来てください。」とお答えするのが精一杯でした。
 これだけ多くの外国籍の方が日本で暮らしている今も「外国籍ということだけで違う(マイナス要素の)扱いを受けること」がまだまだ多くあるというのが現実なのだと痛感しました。
 私が知らないだけで保育所に来ている外国籍の保護者の方々は、これまでの日本での生活において、様々な場面で傷つき(傷つけられたといった方が正しいのかもしれません)、不当な扱いを受けてきたのだろう(今現在でも、そのように感じることがあるのかもしれない)と、日々の関わりの中でこれまでとはまた少し違った思いを抱き、新たな気持ちでみなさんと向き合う機会となりました。それは「可哀そう」というような類のものではなく、むしろ、そのような状況であっても、強く前向きに、そして明るく生活を送っているみなさんに対する「尊敬の念」です。もちろんこれまでも、外国で生活することの大変さを思い「凄い、自分にはできない」と感じることは多々ありましたが、実際の日常というのは、そんな生易しいものではないはずです。これまで保育所で外国籍の方々と接してきながら、本当の意味での理解はしていなかったのだと、そして本当の意味で理解することはできないのだろうと思いました。だからこそ、相手の立場に立って寄り添い、自分にできることは何か、保育所としてできることは何かという事を常に問い続け、対応にあたっていかなければならないのだと改めて気づかされました。

 私が入職した1993年4月には、既に多くの外国籍児童が入所していました。「一人ひとりのありのままの姿を受け入れる」という方針でしたから、その頃も今も外国籍の方々への基本的な対応や姿勢は変わってはいません。2008年度からは信愛塾と連携を取らせていただくことで、外国籍世帯の込み入った相談についても対応することができるようになりました(直接、信愛塾をご紹介して対応していただくこともあります)。その後、信愛塾との関係から中国語の通訳・翻訳のできる職員を配置、外国語と日本語の堪能な保育士を採用する等、以前以上に手厚い支援ができるようになったと思っています。
 保育所は「子どもの最善の利益の尊重」を保ち、子どもが安心して過ごせる場です。また、保護者と連携することで家庭と保育所との生活が繋がるような連続性をもって送れるように努めなければなりません。そのためには、保護者との信頼関係を構築していくとともに、子どもたちが保育所で楽しく過ごしている姿を見ていただくことが必要になります。子どもの笑顔が保護者の安心に繋がり、その保護者が安心して笑顔でいられることが子どもの安心に繋がる。その逆もありますが、常に子ども一人ひとりを、保護者一人ひとりを、そしてそれぞれの家庭をありのまま受け入れることで、各家庭に合わせた支援を行なっていくことができます。
 寿福祉センター保育所は継続的に外国籍児童を受け入れ、家庭も含め関わってきました。そのお陰で、対応や支援のノウハウについても保育所としてだけではなく、各職員が経験値を上げ、年々、日々の実践とともに関わりの幅が広がり、頼もしさを感じます。当保育所が中区に所在しているということで、今後も外国籍世帯の受け入れが減ることはなく、更には、より多国籍化していくことも予測されますが、これまでの経験があれば十分に対応していかれるということは当保育所の強みだと感じています。

 2019年4月1日付での異動により、私は寿福祉センター保育所の所属ではなくなりました。しかし、離れたからこそ見えること、見えてくることが必ずあると思うので、違う場所からこれまでのことを振り返り、今後を見つめていきたいと思います。そして、保育所を卒園し、その後、社会へと出ていく子どもたちの未来が、国籍(だけではありませんが)に捉われることなく、一人ひとりの良さが生かされ、一人ひとりの力が発揮できる時代であることを願いつつ・・・。

韓国の歴史と今を旅する 信愛塾スタッフ 大石文雄

 「乾清宮はどこですか?」「明成皇后が死んだところはどこですか?」ソウルの中心部にある景福宮の中で、いくつもある宮殿を行ったり来たりしながら行き交う人に道を尋ねた。本来なら「明成皇后が殺されたところはどこですか?」と尋ねたいところだが、韓国語の受身表現の難しさ(僕の表現力のなさ)からこうなった。実はこれまでも景福宮を訪れるたびに探し続けてきたのだが、復元工事中であったり、どの建物なのかよく分からなかったりして、結局はあきらめてきた。「ここをまっすぐ行って、香遠亭を越えて、その裏だ。」王宮内で出会った若者が途中まで一緒についてきてくれて、こう教えてくれた。
 一国の皇后が他国の公使らによって殺される。こんな前代未聞の大事件が、1895年に日本の公使三浦梧楼らによって引き起こされた(乙未事変)。三浦らは大陸浪人らを使って明成皇后を斬殺し遺体を焼いてしまう。犯行を王朝内の権力争いに見せかけようとしたが、王宮内にいた外国人に見つかってしまう。国際的非難を恐れた日本政府は三浦公使を日本に連れ戻し裁判にかけるが、結局は証拠不十分ということで無罪にする。このような蛮行に恐怖を感じた朝鮮の王(高宗)は、1896年、景福宮を離れロシア公使館に逃れて政治を行う(俄館播遷)。1905年、日露戦争に勝利した日本は軍事的圧力を背景に韓国を保護国にし(乙巳保護条約)、1910年には韓国を日本の植民地にしていった(韓国併合)。日本の侵略を象徴するような大事件の連続であるが、この歴史の現場の一つが景福宮内にある乾清宮(坤寧閣)なのである。ちなみに、ロシア公使館の建物の一部も徳寿宮(ソウル市庁舎の向かいにある王宮)の裏手にある林の中に今でも残っている。
 今、日韓関係の悪化、とりわけ安倍政権と文在寅政権との関係悪化がよくマスメディアなどで取りざたされるが、日本と韓国はいつまでたっても『近くて遠い国』なのだろうか?「慰安婦問題や徴用工問題、これらは既に日韓条約などで解決済みだ」「有償3億ドル、無償2億ドルまで払って解決したのに韓国はいつも蒸し返してくる」と熱くなる。日韓関係がすぐ行き詰ってしまうのは常に歴史認識の問題が絡んでくるからだ。日本政府(とりわけ安倍政権)は加害の歴史にふたをしようとするが、韓国側はそれを許さない。こんな風に隣国同士でありながら日韓関係はいつまでたっても先に進まない。解決の糸口は永遠にないのだろうか?でも僕はそうは思わない。国と国とがいがみ合っていても、人と人との(人々同士の)関係は国境を越えて友情を育めると考えている。でもそのためには互いの努力が必要だ。それは共同で歴史の真実に向き合う努力だ。
 第二次世界大戦終結40年を記念する演説でワイツゼッカー大統領は「荒野の40年」と題した演説で「過去に目を閉ざす者は現在をも見ることはできない」と語り、ナチス・ドイツが犯した行為を今も許さないと全世界にアピールした。日本が、韓国をはじめとするアジアの人々との友好的関係を築くには歴史の省察を抜きにはあり得ない。僕は問題解決の糸口は、決して歴史にふたをすることではなく、加害の歴史に向き合うことから始めなければならないと思う。
 次は韓国の現代史である。その歴史の舞台は全羅南道にある光州である。1980年5月、僕は光州事件をテレビで初めて知った。強烈な電撃が走ったのを今でも覚えている。それは頭に鉢巻をした貧しい身なりの若者たちが、何かを叫びながら、銃を持ってトラックに乗って光州へ向かっていく光景だった。最近、映画「タクシー運転手」などでも話題を呼んでいるが、光州事件は今年の5月で39年目を迎えることになる。長く続いた軍事独裁政権を打ち倒す民主化抗争の発火点となった事件である。この抗争で息子や娘を失ったり、行方不明になったりした子の親たちでさえ、軍事政権の迫害を恐れて、これまで事件を語れず、真相すら明らかにできなかったという。ようやくこのことを語れるようになったのは、80年代後半の民主化抗争を経て、軍事独裁政権を倒してからのことだった。
 そんな光州事件が起こった光州市は、今では世界記録遺産としても認められ「光州人権都市」として姿を変えるようになった。5.18民主化運動記録館に入ると、たちまち1980年の光州の街角に佇んでいるような幻覚が生じる。民衆の叫び、悲鳴、軍靴の音、催涙弾の臭い、そして銃声までが聞こえてくるようだ。道路に散乱した運動靴やハイヒール、道路を塞ぐバス、バスの上に立ち上がって叫ぶ若者、飛び散る血痕、銃弾にくり貫かれる窓ガラス。そして倒れた若者に容赦なく打ちおろされる棍棒、後ろ手に縛られ数珠繋ぎに連れ去られる人々、ずらっと並ぶ棺の前で泣き崩れる母親。展示されている遺品など、どれもが当時の姿を生々しく伝えている。道庁前の噴水台を囲んでの大衆集会。最後まで銃を持って闘うか、それともこれ以上犠牲者を出さないために軍に降伏するかを討議する人々の姿。戒厳軍が攻め込んでくる日の早朝、道庁のスピーカーで市民に「市民の皆さん!今、戒厳軍が攻めてきています。私達は最後まで戦います。どうか私達を忘れないでください!」と哀切に訴える女学生の姿。「ニム(君)のための行進曲」がBGMで流れてくる遺品の前で、いつしか僕の頬は涙で濡れていた。
 こうした悲劇を繰り返しながら民主化を闘い取っていった韓国の民衆運動の力強さに、僕は強く心を打たれた。韓国の近現代史を「踏みつけられても踏みつけられても立ち上がってくる民衆の力強さ」と表現していた故梶村秀樹先生の言葉が思い出された。やはり歴史は生きているのだろうか。
 最後は韓国の現代そのものでもあり、「未来」でもある安山市である。ソウルから1時間ほど地下鉄4号線に乗っていくと安山に着く。改札を出るといきなり韓国医療支援財団の看板が目に入ってきた。外国人への治療費支援、生活医療費支援を呼び掛けていた。3月10日付けの朝日新聞によれば安山市には外国人が8万6千人居住し、市の人口の約12%に当たるという。僕は早速新聞で紹介されていた多文化支援本部を訪ねてみることにした。駅を出て地下道を潜り抜けると、そこはいきなりエスニックタウンだった。そう感じさせるのは多言語の看板であったり、多くの国旗(金銭交換所や交番、各種商店、医院などに張られている)であったり、耳に入ってくる多様な言語であたりした。果実店の店先にはドリアン、マンゴー、ドラゴンフルーツ、バナナなど東南・南アジア産のものが多かった。確かに国旗を見るとパキスタン、インド、バングラディッシュ、タイ、インドネシア、フィリピン、スリランカ、ベトナム、ネパール、カンボジア、ミャンマー、台湾、中国などの旗がステッカーのように張られていて、ここには東南・南アジアの人々が大勢暮らしていることが推察された。推察というのは、僕が訪ねたのが月曜の昼間だったので、多くの人は工場に働きに出ていて直接多くの外国人労働者の姿を見ることはなかったからだ。
 多文化支援本部は地上3階建・地下1階のワンストップ施設で、中には多文化移住センター、多目的室、IBK企業銀行、保健支所(診療所)、外国人居民支援課(相談センター)、入国管理局出張所、韓国語教室、多文化小図書館などが設けられていた。2階にある外国人相談支援センターに入るとカウンターごとに各国の小旗が立て置かれていて、その国の言語に対応する相談員がずらりと並んで面談していた。カウンターの外(相談者の背後)には椅子が並べられており、外国人たちが自分に順番が来るのを待っていた。室内は大勢の外国人の熱気で満ちあふれていた。室外にでて廊下を歩いていると入国管理局の看板が目に入った。読んで見るとそこには「自己出頭 不法在留者 入国禁止免除 期間 2018年10月1日~2019年3月31日」と書かれている。看板だけなので詳しくはわからないが、この期間に自己出頭すれば強制送還はされないで在留することができるということなのだろう。
 外国人との共生という視点で見る限り確かに韓国の行政の方が先を行っていると感じられた。労働力不足解消のために、矛盾だらけの技能実習制度の手直しでもって、とにかく外国人を受け入れていこうという日本とはかなりギャップがあるだろう。安山では行政だけでなくNGOの取り組みも活発だ。安山のNGO「国境なき村」には今回は立ち寄ることができなかったが、外国人との共生への取り組みは今も活発に続けられている。
 僅か4泊5日の韓国訪問であったが新たな発見や友人たちとの交流は僕にとっても大きな刺激になった。今の韓国は民主化を推進してきた民衆の力が底流にあり、それが過去の克服や南北統一への動き、共生社会の実現などへと大きな推進力になっているのだろう。
 いつまでも日韓関係の悪化などと言ってどんどん泥濘にはまっていくのではなく、今だからこそ僕らがやらねばならないことがあると思う。それは、国境を越えて人と人との(人々同士の)友情が育めるような仕組みを考えていくことだ。それを次の世代に残していくことができたらどんなに素晴らしい未来になることだろう。