会報誌「ともに」横浜だより

25.12.11 No.86

個人的な体験と日韓「友情」交流 信愛塾スタッフ 大石 文雄

極めて個人的な話になってしまうが、この6月に元韓国外国語大学の朴菖煕(パクチャンヒ)教授がお亡くなりになられた。僕と先生が知り合ったのが「横浜博覧会」が開かれた1989年の夏である。朴先生は韓国外大の学生たちを引き連れて、韓日農村文化交流をするために日本の農村にやってきた。韓日農村文化交流とは当時、日本も韓国も「三ちゃん農業」と言われていたように農村が疲弊していて、農村でのタルチュム(仮面劇)公演を通して日本と韓国の文化交流を行い、農村を活性化させようという試みだった。20名ほどの学生たちは千葉や群馬や長野など回り農民と交流を重ねた。長野では松代にある大本営地下壕などを日本人学生と一緒に訪ね、議論も交わし交流を続けた(こうした活動がNHKや各地の新聞などでも報じられた)。ちょうどその時、横浜では開港130年、市制100周年の記念行事として博覧会が開かれていた。そして博覧会場でのタルチュム公演となった。たまたま韓国語を習っていた僕は博覧会に参加した韓国外大の学生をホームステイで何日か受け入れたことがきっかけで、その後、韓国を旅行するたびに朴先生や韓国外大の学生たちとの交流が始まっていった。下手な韓国語であってもお酒が入れば何とか通じ合えたような気になって僕にはとても楽しい想い出となっていった。

信愛塾のキャンプの下見に出かけたある日、河原で寝転んで(当時)購読していた『東亜日報』を見ていたら、新聞の一面に大きく朴菖煕先生の写真が載っていた。青天の霹靂である。しかも手には「手錠」がはめられていた。新聞は国家保安法違反容疑で拘束されたことを伝えていた。それは日本で北の工作員と接触したというものだった。「一体、どうしたらいいんだろう?」と考え、まずは朴先生が日本で知り合った人々を探しまくった。映画監督や新聞記者、作家、歴史学者、大学教員など関東から関西まで様々な方と交流があったことが分かってきた。そして連絡を取り合い、みんなで集まって「救援会」を作った。裁判のために朴先生がどのようなことを考え、どのような経歴をたどったのかも調べた。一橋大学や東京都立大で学び大学院を出て韓国外国語大学の歴史学の教員になったこと、一橋大学時代は当時起こった小松川事件(在日朝鮮人青年が犯人とされた女子高校生殺人事件)の救援運動のリーダーをしていたこと、韓国外大では高麗史の研究者として、また独島(=竹島)問題や国民学校(日本の植民地下でつけられた名称)改名問題でも活躍してきたこと、また大学では学生運動の理解者でもあり、学生たちからもとても信頼されていたことなどが分かってきた。

やがて裁判が始まった。訴状では、朴先生には北朝鮮に生き別れた弟がいたが、弟の消息を知りたがっていた朴先生のもとに北の工作員が接触してきたという筋書だった。(朝鮮半島は南北に分断されているが、日本の在日コリアン世界には南北の境界線はなく、スパイ捏造事件はしばし日本が舞台となることがよくあった。)韓国では政治犯に対する風当たりは冷たく無期懲役というだけで距離を取る人もでてきた。しかし日本からの無罪を訴える署名や証拠資料が提出されるなどすると、マスコミにも大きく取り上げるようになり韓国内でも関心がもたれるようになった。救援運動は日本で暮らしたことがあり朴先生の娘である朴貞雅(パクチョンア)さん※が献身的に働き支援の輪を広げていった。訴状では工作員が朴先生を包摂するために赤坂プリンスホテルに閉じ込め、ビデオデッキを持ち込んで北朝鮮の映画を見せて思想教育を行ったということになっていた。救援運動にかかわってくれた新美隆弁護士(故人)はホテル側から「ホテルができた当初からビデオデッキが設置されていたのでビデオデッキの持ち込みなんてありえない」という証言を引出し、それを証拠資料として提出してくれた。裁判は結果的には3年余りの刑に減刑され、朴先生は釈放された。無罪判決や国家による赦免が勝ち取れなかったという無念さは残ったが・・・。

釈放後、朴先生は陶器で有名な利川(イチョン)に居を構え、活発な活動を展開した。韓国映画にもなった漢方医許浚(ホジュン)を題材にした「東医宝鑑」の翻訳、靖国神社境内にあった「北関大捷碑」の返還運動(日本(靖国神社)→韓国→北朝鮮へと返還される)、植民地時代に日本に持ち去られた利川の五重塔の返還運動(未だ返還されずにホテル大倉に残っている)、「日露戦争の世界史」崔文衡著の日本語訳など学者としても市民運動家としても様々な業績を残している。

僕は韓国に行くたびに利川の家に寄りお酒をご馳走になりながら夜遅くまで政治や歴史や文化の話を聞かせてもらった(それは朴先生の日本語が極めて上手であったから可能だったのだ)。家の裏山は山茱萸(さんしゅゆ)の里として有名で、春になると黄色い花が咲き誇り、長閑な農村風景をにぎわせてくれた。朴先生は利川の家の敷地に韓日「友情」の『すみれの家』を作って韓日交流の「場」にしたいとよく語っていた。「交流」は国家間の関係が悪化するとすぐ途絶えてしまうので、「友情」交流が必要なのだというのである。韓国太田で行われた朴先生の葬儀に僕も参加させてもらった。その時「もしかして大石さんではないですか?」と話しかけてきた人がいた。どこかで見たことがあるような風貌であった。その人はかつて韓日農村文化交流にも参加し僕の家にホームステイしたことのある韓国外大の学生だった。彼はもう立派な大人になっていて今は釜山で不動産会社の社長をしているという。「先生、良かったら釜山の僕の家に来ませんか?僕が釜山を案内しますので・・・」。彼はこれから日本語を勉強するという。朴先生亡き後もこうして新たな「友情」交流は続いていくのである。

「日本人ファースト」、外国人への排斥、その時だけの「交流」、スパイ防止法制定への動き、今の日本はどれほど排外的に、戦争体制へ、また内向きになっているのだろうか。僕が経験してきた個人的な体験からもこうした動きは「イヤ」だし、許しがたいと思う。恐らく『すみれの家』を考えていた朴菖煕先生だって嫌がっていることだろう。歴史を通して「友情交流」を願っていた朴先生は誰よりも深く日本に関心を抱いていたし、青春時代を過ごした日本をこよなく愛してくれていたのだろう。信愛塾も『すみれの家』でありたいと思う。

※朴貞雅さんのお子さんたちは信愛塾キャンプに参加されたこともあり、朴貞雅さんは今年5月に行われた「韓国現代史を訪ねるスタディツアー」の通訳をしてくれた方でもある。

小さな声が届くように 信愛塾ボランティアスタッフ 武田 妙子

最近、毎日のように熊の報道がされている。山に食べ物がなくなり、人里へ食を求めてくるのだろう。人間のこれまでの在り方の蓄積があるのかもしれない。山や川の自然の豊かさが失われていることに気づかされる。その対策はと言うと、その場限りの施策でしかないことも矛盾を感じる。

 さて、わたしたち人間はどうだろうか。生活、職、身の安全を確保するために生きるすべを求めて日本に来られた人たち。反対に、自分たちの求めでなく来られた人たち。様々であるが、他国で暮らすことは困難が伴う。特に日本においては、やさしさの欠乏が国、自治体、個人の意識の中にも目立っている。信愛塾の子どもたちもそれぞれの環境の中で必死に生きている。最近は、不登校、薬の過剰摂取、日本語になかなかなじめず、安心、信頼の関係を築くことが難しいこともある。コミュニケーションがスマホやタブレットを仲立ちとしているのもそのひとつかもしれない。

 しかし、最近ムスリムの中2の女の子との出会いは希望を与えられるものがある。彼女は時間になると必ず祈りの時間を持ち、食べてはいけないものを口にせず,その身はベールで覆って通学している。彼女と国語の学習をしているときのことです。一つ一つの文章と問題を解いていくとき、読めない漢字が多くフリガナを振って進めた。少し長い文章や漢字が続くときには一緒に声を出して読み進める。一人で読むと文字を追うことに集中するが声に出して、その声を聞きながら読むと文章の内容を理解していることが分かる。そして、その理解度は的確に答えと結びついていく。しかし、知らない言葉、例えば「大根」と言う言葉は日常食することがないのだろうか。言葉で説明して味やにおいを伝えることは難しい。2枚のプリントをやり終えた彼女は家でもう一度やりたいと申し出、コピーした同じプリントを渡した。もっと学びたいという意欲で満ちている。私自身、彼女と一緒に学ぶことは楽しさでいっぱいになる。「先生、今日は何時まで」「今度はいつ来る」との問いかけに、感謝で帰る際には、「一緒に勉強できてありがとう」と言って帰らせていただく。彼女の将来が希望の道に進んでいくよう祈る次第です。

 また、もう一人フィリピン人の母親と暮らしている日本生まれの小6の男の子は、人に対して思いやりを持って接することが身についた子である。帰る際には、「先生、体に気をつけてね」と声をかけてくれたりして、いつもみんなに愛されている。これから中学生になることもあり、青春の悩みや将来の不安について相談してくるが、心の安定は信愛塾の中ではぐくまれていることを知る。

 周りの多くの情報にふりまわされている今の世の中で、一人一人の顔が見える時間はなくてならないものだと思う。それが信愛塾の空間の中にある。竹川センター長とのミーティングが多くなったのもその現れだろう。一人一人が向き合い、心を通わせる関係の始まりは今までの経験や価値観が築き上げた偏見から解放される糸口になるかもしれない。どうぞ、新しい発見をともども共有し合いましょう。

年末特別寄付のお願い

紅葉の季節も終わり冬の訪れを伝える季節になってきました。皆様方におかれましてはご健勝のこととお慶び申し上げます。

今年も紙面を借りて信愛塾から年末特別寄付の訴えをさせていただきます。信愛塾は10月で設立47年を迎えました。地域に密着して活動を続け、信愛塾は地域にとってはなくてはならない存在になってきたのではないでしょうか。これは私たちの活動を理解して、そして支えてくださった皆様が居るからこそ出来たことです。

在日外国人が年々増加し、今年の発表では6月末時点で既に397万人を超えており、400万人の時代がもう目前まで来ています。しかし、近頃は外国人に対してのパッシングが強くなっています。夏の参院選、外国人政策の厳格化を掲げる政党が台頭し、一気に社会状況が変わりました。そんな流れは子ども達の間でも影響が出来ています。ある子は「外(害)人」と呼ばれたり、ある子は「黒人」と呼ばれたり。子ども達は日々不安を感じながら学校生活を送っています。そんな彼らは信愛塾にやってきて、仲間達とたわいのない話をして、勉強して、遊んで、お腹いっぱい食べて帰っていきます。信愛塾が何とかやり続けられているのは、ひとえに皆様方の温かいご支援のおかげであるのは言うまでもありません。

ただ、信愛塾の財政が厳しい状況にあるのは今も変わりはありません。長期にわたる物価高によりさらに財政が圧迫されています。信愛塾が活動していくためにはスペースの確保や維持管理、スタッフの人件費、事業の運営費、教育や生活面で困難を抱えている子どもたちへの直接的・具体的支援など諸々の費用が掛かります。助成金申請なども行っていますが財政的にはいつも危機的状況にあるのも変わっていません。

常日頃、私たちの活動にご理解をいただき支えいただいている皆様に、重ねてご無理をお願いすることは誠に恐縮ですが、「共に生きる」社会を築くため、そして未来を担う子どもたちのためにも、年末特別寄付による信愛塾へのご支援を、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

202512

信愛塾スタッフ一同

寄付は郵便振り込みでお願いします。

〔口座番号〕00270-0-7501〔口座名〕相談センター・信愛塾

編集後記 信愛塾スタッフ 王 遠偉

 皆さんはドキュメンタリー映画はお好きでしょうか?私は普段はあまり映画鑑賞をしていませんが、今回、中国版のTikTokの「抖音」を見ていたら、偶々フォローをしていたある中国南京在住の日本人映画監督が新作「名無しの子」を製作したことを知りました。ダイジェスト見て、日本での上演だったので、「絶対見よう」と思いました。東京での上映が最初でしたが、横浜でも1121日~1212日まで上映しています。でも、このニュースレターが届く頃には横浜での上映は終了しているでしょう。

 この映画は中国残留孤児に焦点を当てたドキュメンタリー映画です。残留1世から3世まで様々な年代の人達がこの映画の中に登場します。年代の違いこそはありますが、唯一共通する点はありました。それは自己のアイデンティティです。日本人なのか、それとも中国人なのか、そんな葛藤の中で彼らは生きています。高齢になった残留1世の為に介護施設を立ち上げる残留2世もいれば、学生時代に言葉・文化の違いによっていじめられて、同じような経験をした残留2世の仲間達と「怒羅権(ドラゴン)」という組織を立ち上げて社会に反抗していく道を突き進んだ残留2世もいます。

 紙面の都合上詳細は書けないですが、とても考えさせられ、そして鑑賞した人達が皆涙を零す映画でした。東京の方のシアターはまだ上映中ですので、もしお時間がある時はぜひ見てみてください!