16.9.28 No.32
- 上海と南京、歴史の「現場」を訪ねて
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暑い8月のまっただ中に、上海と南京を旅した。上海はまず大韓民国臨時政府の庁舎跡を訪ねてみたかった。それともう一つの歴史の「現場」である虹口公園(現在は魯迅公園)に行ってみたかった。「現場」というのは朝鮮の独立運動家ユンボンギル尹奉吉が1932年4月29日の天長節記念式典に日本軍に爆弾を投擲したというその場所である。南京では揚子江の川岸に佇んでみたかった。それと南京大虐殺を伝える記念館(「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」、以下「記念館」と略す)である。ぼくは歴史の現場に立って考えることが好きだ。日本と東アジアとの関係史に関する書籍を読んでいて、文字だけを追って考えているとなかなか頭に入ってこないが、実際に現場に立って周りの地名や位置を知ったり、人物の写真や様々な道具や展示物などを見たり、時代背景を想像したりしながら考えてみるとイメージがぐっと膨らんでくるからだ。『白凡逸志』(梶村秀樹訳 平凡社東洋文庫)に上海臨時政府の国務領主席であり独立運動家であったキムク金九が若き尹奉吉に抗日義挙を命じる話がでてくる。尹奉吉は死を覚悟して、子どもたちに遺書を残し、金九と最期の食事をする。その時、尹奉吉が「私にはもうあと1時間しか使う必要がないから」と、買ったばかりの新しい時計を金九の安い時計と交換してあげる場面が出てくる。ぼくは読んでいてとても胸を打たれた。尹奉吉は爆弾投擲後その場で逮捕され、日本に連行された後、金沢の練兵場で処刑される。この事件を契機に満州事変や万宝山事件※などで悪化していた中国人の朝鮮人に対する感情が大きく好転し、中国国民党は以後大韓民国臨時政府の財政的支援を行うようになっていくのである。その金九の活躍していた「現場」が上海臨時政府庁舎なのである。建物はフランス租界の一隅にあった。外側から見るとそこらにある煉瓦造りの民家そのもので看板がなければ通り過ごしてしまうような建物であった。建物内部は当時の臨時政府庁舎が再現されていた。政府庁舎といっても二階建ての長屋といった感じで金九の執務室や会議室、政府要人が使った執務室や寝室などを見ることができた。狭い木造階段を上り下りしながら、ここで多くの朝鮮人独立運動家たちが貧困の中でも民族の独立を夢見、政争に明け暮れしながら過ごしていた姿を想像した。弾圧と貧困と拷問の恐怖の中で独立運動家たちはどんな夢を描いていたのだろうかと…。
フランス租界は並木が美しく洒落た家や店が建ち並び観光地としても人気スポットだ。でもフランス租界は日本警察の支配が及ばない地域であったからこそ大韓民国臨時政府を置くことが出来たのである。租界は中国人にとっては紛れもない「治外法権」そのものだった。異国情緒を今に残しているフランス租界跡はまさに歴史のアイロニーとしか言いようがないのだろう。
南京は上海よりも日差しも強く湿気もあってまるでサウナのようだった。南京は城壁に囲まれているが、広さは日本の山手線の内側ほどもあるという。なのに市街を通る地下鉄は3線だけなのでどうしても歩くことが多かった。リュックを背負って歩くと汗だくになり結局タクシーやバスを利用せざるを得なかった。南京の城壁を歩き、高楼から揚子江を望んだ。でもどうしても岸辺に近づきたくて長江大橋の展望タワーまで行って下を流れる大河を眺めた。
かつてこの河に多くの死体が浮かび「まるで筏のようであった」と記念館のパネルに記されていた言葉が思い出された。戦争とは言え戦意を喪失した軍人や市民を残虐に殺害し、女性にレイプを繰り返した事実は隠しようがない。記念館の証言のどれもが地獄のような場面であったことを伝えている。事前学習て読んだ『南京戦 切り裂かれた受難の記録』(松岡環著 社会評論社)には多くの被害者自らが思い出すのもおぞましいような受難の数々が語られていた。受難者は自らの体験を語った後、皆一様に今の平和を願い、「事実の歪曲だけは許せない。」「日本の若者には被害の事実だけは知ってほしい。」というメッセージを伝えていた。ところが日本はどうだろう。謝罪どころか虐殺やレイプの事実すら認めようとしない政治勢力が台頭してきている。彼らは政治的圧力を加え、戦争を美化し加害や侵略の歴史を教科書から消し、子どもたちには真実を知らせないようにしている。南京を旅していてふと気が付いたのは日本人旅行者らしき人をほとんど見かけなかったことだ。やはり日本人には南京は行きづらい所なのだろうか?でもアジアのアウシュビッツにも匹敵する南京事件に向き合うこと無しに私たちはアジアの平和的未来を望むことは出来ないだろう。過去に目をつぶって未来を描くことは出来ないからだ。記念館を出て敷地内を少し歩くと万人抗があった。たくさんの遺骨が何層にも重なっていた。中には大人だけでなく子どもの骨もあった。ぼくはこれらの遺骨を見ながら彼らが殺されるときの表情や姿を想像してみた。しかしとても像を描くことは出来なかった。結局、合掌するだけでその場を離れた。強い日差しを避け、木陰にあるベンチに腰をかけて休んだ。強い衝撃の余韻の中でこれからどうしたらいいのかと考えた。知ったことを正しく伝え理解者を増やすこと。戦争は常に差別を利用し暴力を正当化しようとすることなどを歴史から学ぶこと。被害を受けた人々の苦しみ悲しみを心に刻みつけ教訓化すること。侵略や加害の歴史を歪曲し戦争を美化したがる現実の動きと闘うこと。そして国境と国家を超えて人と人との連帯を作っていくこと。そのためにも議論と交流の場を作ることなどが思い浮かんだ。やはり重すぎるくらい重い歴史ではあるが目を背けずに生きていくしかないのだから。
※万宝山事件:1931年7月吉林省万宝山付近で中国人地主と朝鮮人農民が開墾地と水路を巡って繰り広げた流血事件。日本はこれに介入して朝鮮人の中国人排斥感情を煽ったと言われている。

