会報誌「ともに」横浜だより

17.2.8 No.34

「信愛塾 ロゴマーク」 -考え抜いて見えたこと- 信愛塾スタッフ 福島周

信愛塾に関わり始めてあっという間に4カ月がたちました。前号の「ともに」でご挨拶をさせていただいた際、仕事面などで挑戦するためにオランダに移住する予定であることをお伝えしました。その後も信愛塾に通う中で、徐々に信愛塾に心が惹かれている自分がいることに気づき、そしてその分悩みました。
僕がオランダに行きたい理由の一つに、広い世界をこの目で見てみたい、というごく単純な思いがありました。渡航時間が短くなって距離が近く感じたり、WEBが発達して行ってもわからない情報がWEB上に載っていたとしても、行ってみないことには体験できない、言語、文化、生活などの違いや差を自分の体で感じてみたいと思っていました。
しかし一つのことに気づきいたのです。例えばオランダに行って感じられるものを横軸の広がりとすると信愛塾では縦軸の深い経験が得られるのではないか、ということでした。信愛塾に来る子どもたちや親御さんたちを取りまく環境はさまざまです。その一人ひとりに向き合うことは山頂の見えない山を登り進んでいくようなことであるけれど、そこには信愛塾でしか得られないもっと血の通った言語やコミュニケーションがある、自分にとってとても価値のあることだと気づくことができました。
そういったことに思い至ることができた結果、今の僕にとっては信愛塾に関わっていくことのほうがより大きな挑戦と経験になると考え、最終的に信愛塾に深く関わっていくことを決心ました。
「自分にとっての価値や挑戦がなにか」というのは僕のエゴの部分であり、その対象が信愛塾であることは、この文章を読まれている方のなかには「それはおかしい」と思われる方もいるかもしれません。しかし人生の岐路に立ち、腹を決めた以上はできうることすべて、精一杯やっていくというとても強い決意があります。さまざまな面において知識も経験も足りないことを日々感じて悩むことも多々ありますが、肌で感じたこと、考えたことを行動に結びつけて信愛塾を盛り上げいきたいと思っていますので、今後ともご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願い致します。

さて、ちょうどオランダに行くか信愛塾に関わっていくか悩んでいたときの話ですが、竹川さんからお話をいただき、信愛塾のロゴマークの制作も進めていました。決意表明の部分が長くなってしまいましたが、今回はそのロゴマークについて書かせていただこうと思います。
ロゴの制作は子供たちやスタッフの皆さんに信愛塾についてのアンケートを取ることから始まり、信愛塾で起きているさまざまなことや竹川さんの考えていることなどを聞き、そして信愛塾の在り方や姿勢も含め、それらのことを僕なりにコンセプトとしてまとめ、そのコンセプトをデザインに込めるために試行錯誤を繰り返しました。
しかしコンセプトを作る過程で、今までロゴを依頼されて経験したことがない苦悩がありました。それはロゴを考えていく以前に、信愛塾が受けている親御さんたちの相談の内容を含めた信愛塾で起こっていることを、自分の頭と心で整理ができなかったことです。
今思えばそれは常に身近なところにありました。小学校や高校のときにも在日韓国人の生徒はいました。仕事ではドイツ人と日本人のダブルの方と長い間仕事を一緒にもしました。しかし彼らは大変そうな素振りを見せることなく、むしろそれを笑いネタにしてしまえる強さをもっていたからでしょう、彼らの抱えている本当の想いをまったく知らず、向き合う機会もありませんでしたし、ニュースや新聞で聞いたことはあっても、今まで本当の意味で考えたことがありませんでした。
竹川さんに相談しながら思考をめぐらし、ホームページやリーフレットを参考にしながらひとつひとつのことを紐解いて咀嚼し、進んでは戻って、本当に牛歩のごとくのろのろとではありますが、少しずつ、少しずつ、感覚的なものに言葉で輪郭を与えていく作業を続けました。そのコンセプトが以下のものであり、それを元に考えたシンボルが表紙のロゴマークになります。



信愛塾 ロゴマーク コンセプト

「寄りそう」

信愛塾では子どもが自分のままでいられる。自分のままで自由に学び、自由に遊ぶ。自分のままでいられるから自分の言語を使うことができ、多くの国の人たちと自然とうちとけることができる。そんな子ども同士のコミュニケーションが生まれているのは子どもたちにありのままの自分でいてもらいたいと信愛塾の大人たちが願っているからなのかと思う。もちろんダメなことはダメ。なにをやっても許されるわけではない。だから怒られることもある。喧嘩することもある。それでも信愛塾に来るのはきっと、そこに友達がいるから。大人たちがいるからだと思う。
子どもたちの親たちも信愛塾を頼りにしている。子どもが信愛塾に行っていない人たちも信愛塾に助けを求めている。相談を受け、悩みに耳を傾ける。内容は十人十色。だから一人ひとりの問題に向き合い、解決の方法を探り、二人三脚で一緒に解決に向けて走る。
子どもたちが通う学校の先生、横浜市や区などの行政の人も困ることがある。知りたいこと、学びたいことがある。それは信愛塾に関わりを持っている人だけじゃないと思う。地域の人たちもそうかもしれないし、日本全国で求められていることかもしれない。
信愛塾が子どもに寄りそい、親に寄りそい、家族に寄りそう。親子同士が寄りそう。学校の先生が生徒に寄りそう。地域の人が信愛塾に寄りそう。行政が状況に寄りそう。寄りそう2人のシルエットは肌で感じて体で行動する信愛塾の在り方、信愛塾に関わる人の在り方を表している。
そしてもう1つ。「子どもの居場所を作る」「日本にきた家族が生活を営むことができる環境を築けるよう、社会や行政に発信する」という信愛塾の‘両輪’としてずっと続けてきた2つの活動も表している。寄り添い、手をとりあっているような2人の人の形をしたロゴマークにはそれらの意味合いが込められている。


このコンセプトを竹川さんたちに伝えたときに言われたことがありました。それは結果的に出てきたものは信愛塾がずっと大切にしてきた「ともに」という言葉ととても近いキーワードだったことであり、そのことに驚きと喜びがありました。
最初から「ともに」をキーワードにして考え始めれば作業としては早かったのかもしれませんが、しかし出来上がったロゴ自体はきっとまったく違うものになっていたと思います。
また制作する過程で考えたこととして、一般的な多くのロゴは幾何学的で硬質なものであったり、頭文字の一字をマークにしているものが多いですが、信愛塾にはもっと柔らかく人感があるけれど、芯の強さをそなえているものをなんとなくイメージし、形をつくっては修正する作業を繰り返した結果、このようなロゴマークを作り上げることができました。
このロゴを昨年末のクリスマス会で披露させてもらったところ、子供たちから「お~」という声があがり、これは勝手な解釈かもしれませんが歓迎してくれたような気がしました。そして竹川さんからは「宝物」という言葉を聞くことができ、本当にデザイナー冥利につきる思いです。
日本に残るか否かという悩みと同じくらい深く悩み、時間もかかってしまいましたが、そういう気持ちを得られたことで、やっとみんなにとって良いものができたのかなと思うことができました。
今後はこのロゴを使用して名刺やリーフレットを作り直したり、グッズを作るなどの広い展開を考え、そしてできれば子供たちとも一緒にいろんなものを作り上げていけたらと思っています。

やまゆり園事件に思う 信愛塾ボランティアスタッフ 中宮常雄

浄土真宗の開祖、親鸞関係本を最近何冊か読みました。私の短絡的な解釈はこうです。戦乱で疲弊した社会の中で、あの世界的な宗教家である親鸞は比叡山等で修行に修行を重ね、仏の教えによる民衆の救いの道を求めました。しかし激しく厳しい自己研鑽に努めたその親鸞でさえ、自己の煩悩を解き放つ(悟りを開く)ことができなかった。そしてその結果は、民衆の中に入り、ただただ『南無阿弥陀仏』と唱え仏にすがることが救われる道であると説いた。
翻ってここでは現世が問題です。我々凡人はどうすればこの社会の中で共生の心を持ち他者と和解を続けることができるでしょうか。日頃から使っているこの“共生”ですが本当に難しい課題だと思います。社会の究極の目標は“共生”だと思う私ですが、日頃思い浮かぶ雑念を打ち払う苦行や、不眠不休の自己研鑽努力では対象者との共生関係は築けないと思います。なぜなら共生はこの社会での関係性が問題の根本だからです。そんな私は神奈川青い芝の会(脳性マヒ者の全国組織)との関わりの中で、多くを学ばせてもらいました。その中でこんな言葉に出会いました。 曰く、『脳性マヒ者としての真の自覚とは、鏡の前に立って(それがどんなに辛くても)自分の姿をはっきりと見つめることであり、次の瞬間再び自分の立場に帰って、社会の偏見・差別と闘うことではないでしょうか』(横塚晃一氏)この言葉から皆さんは何を感じ取るでしょうか。私はこの言葉を聞き、自分の愚かさを知り、ただ涙しか出ませんでした。(青い芝の会行動綱領①我らは自らがCP者であることを自覚する、へ繋がる言葉)
昨年引き起こされたやまゆり園事件は、現代の深刻な格差や差別的な社会状況から考えても、私にとっては衝撃であり冷静ではいられませんでした。更に容疑者が、以前この施設で従事していた職員であったことを知り、一層複雑な気持ちになりました。人は誰でも他者の存在なしに生きていくことはできません。彼が管理者としての自分目線しか持てず、障害者と共に住む社会の豊かさへの思いを欠落し、180度逆転してしまった考えを持つに至った背景はどこにあったのでしょうか。
日本政府は義務教育就学100%達成等を意図して、1979年に養護学校義務化を施行しました。それ以降ほとんどの障害児は養護施設での就学を行うことになりました。又高崎にある国立コロニーなどの様に、人里離れた地での隔離的収容も行われ、障害者との日常的な出会いの機会が、どんどん少なくなっていきました。障害者は社会で共に暮らす隣人やパートナーではなく、客体扱いになりました。一方で2014年に障害者権利条約が批准・発効され、又昨年は障害者差別解消法が施行されるなど表面的には障害者に対する理解が進んでいるようにも思えます。事実、街では点字ブロックや駅のエスカレーターが徐々に整備されるなど、障害者が外出しやすい環境も整ってきています。パラリンピックでの障害者の活躍も素晴らしいものがあります。我々はともすれば表面的な問題だけを見てしまいがちです。
青い芝の会は上記①の行動綱領の他、②我らは強烈な自己主張行う。③我らは愛と正義を否定する。④我らは問題解決の道を選ばない。を掲げています。多くの青い芝のメンバーは、日常生活を送るために介助者を必要としています。しかし行動綱領は介助者・健常者との関係構築が簡単ではないことを(差別の根深さ)、介助を受ける当該者側から発しているのです。被差別者側からする健常者側に対する自己主張です。やまゆり園の容疑者の頭の中には、このような介助される側からの突き付けは、あり得ないことだと思われます。感謝の言葉は受けても、問題解決の道を選ばない強烈な自己主張が介助者に突き付けられるなど考えていなかったと思います。
「『かわいそうな立場』にしている」(横塚晃一氏)社会と健常者を打つ関係があって初めてその先に両者共に手を取り合える関係ができるのだと思います。関係は簡単ではありませんが、社会の中で障害者と健常者が不断に緊張関係を持ちながら、支えあうことにより、共生の一歩を歩むことができると思います。

長島愛生園を訪ねて ~ハンセン病と差別を考える~ 信愛塾スタッフ 大石文雄

今年1月の初めに岡山県にあるハンセン病療養所、長島愛生園と邑久(おく)光明園を訪ねた。瀬戸内海に浮かぶ長島は小豆島や岡山県備前市などにも近くとても風光明媚なところだった。ここを訪れるようになったきっかけは昨年夏に常勤講師問題で行った文科省交渉の後の交流会での席だった。外国籍公務員採用第一号の黄光男(ファングアンナム)さんから愛生園訪問の話を聞いて二つ返事で参加させてもらうことにした。神戸近隣の駅で迎えてくれたのはこちらも外国籍公務員第一号の孫敏男(ソンミンナム)さんだった。なぜ第一号が二人もいるのかというと二人は高校時代の同級生で、同じ年に公務員を受験しそれぞれ別の市役所で第一号として採用されたのである。長島に向かう車中、孫さんは彼の父親の思い出話をしてくれた。在日韓国人一世として戦後を生きた人間ドラマのような熱い物語だった。
 同級生だった黄光男さんについての話も興味深かった。高校を卒業し市役所に就職してからも地域実践「うさぎ子供会」の指導員をずっとやってきたこと。本名宣言をし、兵庫民闘連の運動もともに担ってきた二人だった。そんな間柄でさえ黄さんは自分の家族がハンセン病であったことを孫さんに明かせなかった。黄さんは50年近くも秘密を背負ったまま生きてきたのだ。それほど重く辛く悲しい記憶であった。これまで何でも話し合ってきた孫さんにしてみれば、「なんで話してくれなかったんだ」と黄さんに怒りをぶちまけたという。黄光男さんはその後、愛生園訪問や講演会に参加したり元患者家族の人々と話したりしながらハンセン病問題に打ち込むようになっていく。2016年には熊本地裁に、患者家族として国を相手に損害賠償請求訴訟を起こし、今はその副団長として活躍している。
 日本は1907年「癩予防ニ関スル件」、1931年「癩予防法」、1953年「らい予防法」を制定しハンセン病(注1)患者を地域社会から「絶対隔離」した。つまり国策として差別が作られたのである。自治体も「無らい県運動」の実績を上げるため、県単位で学校や保健所などを使ってハンセン病患者をあぶり出し療養所に送り込んだ。一般市民が警察や保健所に密告し、学校は健康診断で患者を発見して児童を療養所に送り込んだという。患者が通った道には白い消毒液まで撒かれたというのだから、人々は「らい」を恐れた。「らい」は貧困と密接に関係し、戦前戦後と貧しい生活を強いられた在日朝鮮人に罹患者が多かった。患者を発見すると、いかにも良いことをしてやっているといわんばかりに地域社会から引き離し、人と絶対接触できない「療養所」という名の「収容所」に追いやった。ハンセン病に対する無理解と「人に伝染する恐ろしい病気」という偏見のもとに全てが合理化され許された。ハンセン病患者は地域社会から激しい差別を受け、疎んじられた。黄光男さんが家族から引き離され育児院に預けられたのは僅か1歳の時だったという。黄さんの母は「(大阪)府職員が二人がかりでわが子を引き離そうとしたとき、『離さん!』と言って泣き叫んだという。」(「RAIK通信第157号」)黄さんの母はどんな想いで孤島の愛生園に向かったのであろうか。1歳の子どもであった黄さんは記憶にもなかったと言うが、子を想う母親の気持ちを考えると胸が張り裂けるような話だ。幸いなことに黄さん一家は1964年に全員が社会復帰でき尼崎市で暮らすようになったのである。
愛生園には今も後遺症を持つ人々が暮らしている。愛生園を案内してくれたのは広島県福山市にある盈進(えいしん)学園の中高校生たちだった。彼・彼女らはヒューマンライツ部というクラブ活動の一環としてハンセン病患者だった人々と向き合い、学び、「らい予防法」という国策を告発し、療養所の人々と交流を続け、ハンセン病に対する差別と偏見をなくすために活動を続けている。「(回春寮)ここに連れてこられた人は身の回りの荷物を全てゴザの上に並べさせられ、園が不要と判断したものは取り上げられました。」「(消毒風呂)入所者はクレゾール入りの浴槽に入れられ消毒させられました」「(監房)入所者の懲戒・検束を行ったところです。風紀を乱したもの、逃走しようとしたものなどが入れられ、食事が制限され、治療も受けれませんでした」「(患者収容桟橋)ここは家族と別れた患者専用桟橋です。ここで入所者は送ってきてくれた家族と引き離されました」「(水子地蔵)子どもをつくることは禁じられ、男性には“断種”・女性には“堕胎”が強制されたました」「(碑文の前で)『もういいかい骨になってもまあだだよ』と書いてあるのは、死んでも家族にも古里にも帰られない悲しみを入所者が詠んだものです」と交替で説明してくれた。
 今回の訪園は昨年12月に亡くなった「金泰九さんを偲ぶ会」も同時に行われ、夜は参加者持ち寄りで鍋を囲んで交流会をした。金泰九さんは盈進学園の中高校生たちに「正しく知って正しく伝える、正しく行動すること」をいつも優しく呼びかけてくれたという。愛生園にとっても金泰九さんの存在はとても大きかった。翌日は島内にあるもう一つの療養所、邑久光明園にも寄った。
 愛生園・光明園訪問は僕にとっては初めての経験であったが、どうしても自分の中にある内なる差別と偏見に向き合わざるを得なかった。「ハンセン病患者はかわいそうな人たちと同情を誘うような問題ではなく、自分にも加害責任があったかもしれないと問われる問題」だと黄さんはRAIK通信の中で言っている。そして今取り組んでいる裁判の意義は「家族と元患者の関係が修復され、堂々と故郷を訪れ家族とふれあえるようになる」ことであるという。盈進学園のヒューマンライツ部を引っ張ってきた延和聡さんは「社会の中で自分も差別と無関係ではないことを知ること」「無関心は、結果的に差別に加担することになる。法や制度が正しいのか、自分はどう行動すべきか、立ち止まって考えられる人になってほしい」と語っている(2016年2月26日山陽新聞「語り継ぐハンセン病」)。
 今、世界は壁を作ったり、入国を拒否したり、ヘイトスピーチで差別や排外主義を煽ったりする「排除」や「隔離」が至るところで蔓延している。そうした流れに棹さして、心に橋を架け、自分が「正しく知って正しく行動する」ことがどれほど大切ななことなのかを知った。愛生園・光明園の訪問はそうしたことをハートで感じることのできる旅となった。

(注1):らい菌によって引き起こされる慢性の感染症で、末梢神経がおかされることによって生ずる神経障害が重要な症状。らい菌の病原性は低く抵抗力が極めて弱い状態の人が、感染力のあるらい菌と接触しなければ感染することはない。現在では抗生剤を中心とする治療法が確立されており完治する病気。しかし1943年までは有効な治療法がなかったため重複した後遺症を残した。