18.4.18 No.41
- 厚木清南高校定時制での10年
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神奈川県立厚木清南高等学校定時制、ここが私の教員生活の最後の場所となった。12年間を過ごした横浜翠嵐高等学校定時制から、2008年の4月、異動してきた。だから、ここでの生活も10年を数えることになった。定時制で22年、全日制は19年なので、教員生活は定時制の方が長くなってしまった。厚木清南高等学校は、全日制・定時制・通信制の3課程を持つ、全国的にも珍しい学校である。単位制の学校で、生徒は3年以上在籍して74単位を取れば卒業となる。前期・後期の2期制なので毎年、9月にも卒業式がある。3月の卒業式は各課程で行うが、入学式と9月の卒業式は3課程合同で実施する。文化会館を借りて実施する入学式は、盛大なものとなる。
思いがけない生徒との再会
私は異動して2年次生の担任になった。最初の年次会は、クラス分けの相談だった。私自身もクラス分けに参加することになった。カタカナとアルファベットの名前が一番多いクラスを担任することにした。現実に担任してみると、日本名を名乗っているベトナム人の生徒や、タイにつながる生徒、フィリピンにつながりを持つ生徒。他にも、ラオス人やペルー人の生徒など、クラスの3分の1は外国につながりを持つ生徒だった。ラオス人の生徒はすごく明るく、指導力もあって、文化祭では「かき氷屋」をやったが、生徒が自宅のパソコンで当番表をカラー印刷してくれた。そんなことを思い出したのは、その生徒が1月ほど前、卒業証明書が欲しいと職員室に訪ねてきてくれたからである。「伊勢ちゃん」と声をかけられたとき、私はすぐに彼女の名前を口にすることができた。それほど、印象の強い生徒だったのである。今では、私のことを「伊勢ちゃん」と呼んでくれる生徒はまれだ。それもあって、とても嬉しかった。事務室に顔を出したとき、最後の担任の先生は誰かと聞かれ、「伊勢先生です」と答えたら、「まだいますよ」といわれて彼女も嬉しくなったそうだ。 もう少し、その生徒のことを書く。その生徒は、「将来はラオスに帰って日本語の先生になりたい」と言っていた。最終年次の10月には日本語学校の願書を持ってきて、入学を決めた。私は夢に近づく一歩になればいいと思っていたのであるが、ラオスにいる親族からラオスの大学に行けと言われて、入学を取り消した。高校卒業後は、ラオスに帰っていると思っていたので、何があったのだとびっくりした。今は、厚木の歯科医院で歯科助手をしているけれども、「歯科衛生士の資格を取るために専門学校に行け」と言われて、卒業証明書を取りに来たということだった。「この間、ベトナム人の生徒とタイ人の生徒と食事会をした」と言うので、あのクラスで私が担任した外国につながりを持つ生徒同士が、卒業して28歳になる今も交流していることを嬉しく思った。そのクラスには、フィリピンにつながりを持つ生徒が2人いた。1人は横浜にあるアニメの専門学校に進学した。もう1人は、クラスの日本人生徒と親公認の交際をしていたが、出産のため半年休学し、9月に卒業していった。卒業生代表のことばを3課程を代表して述べたが、心のこもった立派なもので、「生活体験発表」の県大会に出したいと通信制の教員に言われた。もう1人ペルー人の生徒のことを紹介する。彼女は高校の入学試験を受けに来るとき道に迷って、知らない人に案内してもらったこと、どのような思いで日本語を学習し友だちを作ったか、卒業後はアメリカの大学に行きたという夢を持っているということをスペイン語で書いてきた。日本人の父親に日本語に直してもらい、読む練習を繰り返して校内の「生活体験発表」に出た。教員の中には、初めて聞く彼女の思いに涙ぐむ人もいた。選考の結果、彼女は県大会に出場することになった。アメリカの大学への提出書類など初めてのことで、英語の先生の手助けを受けながら準備をした。無事合格することができた。清南高校の定時制で初めて担任した07生の、外国につながりを持つ生徒はそんな生徒たちだった。 卒業生の思いがけない訪問で、当時の生徒のことが長くなった。担任した生徒は、国籍もつながりも把握できる。しかし、学校全体では一体何人の外国つながりの生徒がいるのか見えない。それが当時の一番の問題であった。しかも、外国につながりを持つ生徒を支援する部署も決められていないのである。それでまず支援をするポジションを作るところから始めた。
ベトナム国籍の生徒の「魂の叫び」
多文化教育支援担当が学校生活支援グループに置かれた。最初の仕事は「多文化教育カード」の作成である。管理職を巻き込んで、あちこちの学校の同様のカードを集め、清南高校定時制バージョンを作った。合格者全員に提出をお願いするかたちで、データを集め始めたのは2012年度生からで、それは私が担任することになった年次生であった。24人のクラスで8人が外国につながりを持つ生徒だった。複雑な家庭状況や、本人の学習意欲など様々な理由で退学をしていく生徒もいた。担任として、踏ん張ったかなと思う生徒が1人いる。ベトナム国籍の生徒であった。その生徒は小学4年の時に日本で働いていた母親に呼び寄せられて来日し、小学・中学では国際教室に通った。その担当であった先生とも連絡が取り合えた。そういう生徒であったが、3年次の授業中に携帯を注意され、教員に手を出してしまったのである。普通であれば一発退学でもおかしくないケースだ。帰宅した後、1日おきに30分の電話を続けた。その電話の中で「誰も俺のことを分かってくれない」と彼は言った。私は職員に「彼は自分のことを分かってもらおうとしても、小学4年生までのベトナム語しか持っていない。日本語でも自分の説明をできない。これは彼の魂の叫びだ。このまま退学させるのではなく、卒業までの間、日本語の勉強をさせて欲しい」と訴えた。最終的に卒業まで特別指導を継続していくことになって、遅刻も欠席もできないという条件の下、3年で卒業していった。教員生活最初で最後の体験だった。
多文化教育支援の二つの車輪
その1年後、定時制・通信制課程は、文部科学省の「多様な学習を支援する高等学校の推進事業」というものの研究指定校となった。3年間の事業で、終了するときは私の2度目の定年退職の年になる。何か不思議な巡り合わせを感じた。推進事業には4本の柱があって、そのうちの一つが外国籍生徒支援である。定時制では、この事業に合わせるように、多文化教育支援の人員が3名に増員された。それに、通信制の1名を加えて4名のグループである。グループの最終目標は「在籍する生徒一人ひとりが自己肯定感を持てるサポート体制を構築する」「異なる国籍の生徒同士が集う場をつくる」の二つにした。それを実現するために、グループとして生徒に対する働きかけが一つの車輪だとすれば、教員に対する働きかけがもう一つの車輪であり、この両輪がうまく回ることで事業が展開してゆくのだと確認して出発した。 教員に対する働きかけである研修会の最初の講師は、信愛塾の竹川真理子さんにお願いした。「外国につながりのある児童・生徒のかかわり」という内容でお話しいただいた。そこで、国籍やつながりを持つ国を知ることだけではなく、在留資格を把握することの重要性を学習した。竹川さんの講演を受け、翌年にはME-netの高橋徹さんを講師にして、「外国につながりのある生徒支援のために-在留資格(VISA)と進路-」と題した研修会を開いた。それを受けて、「多文化教育カード」に『在留資格(VISA)』欄を新設することになった。職員全体に在留資格の把握が必要だということが共有されていたために、スムーズな変更作業となった。これが、教員に対する働きかけの成果の一つである。もう一つは日本語能力試験の合格者に対して、外部単位として卒業に必要な単位とすることができるようにしたことである。今年度、1回目の試験に1人が受験し合格した。それを受けて2回目の試検には7名が受験し、全員が合格した。大きかったのは文科省の事業のおかげで予算が付いており、日本語指導に利用する書籍を大量に購入できたことである。個別支援授業で使用するだけでなく、日本語能力試験対策でも活用することができた。 生徒に対する働きかけは日常の教育活動全般に関わるものとなる。一年目は個別支援授業の担当者で集まりを持って、個々の生徒の情報を共有し合うようにした。また、学校生活をどのように送っているのかが見えるように「高校生活アンケート」を作成し、担任の面談に使ってもらったりして情報の収集をした。授業が理解できているかどうか、それは日本語の問題 なのかどうか。家庭で使う言語は何か。母語はどの程度の力か。卒業後の希望は何か。生徒にとってアンケートに向き合うことは、自分を見つめ直すことでもある。逆にアンケートを取ることは教員にとって、生徒と向き合うことでもある。外国につながりを持つ生徒にとっても、教員にとっても関係を深める手段として活用できたのではないかと思う。
力をつけていく生徒たち
そのような生徒との関わりの中で、事業の2年目には外国につながりを持つ全生徒対象に「多文化クラブ」の呼びかけをした。ブラジル・ペル-の生徒を中心にフィリピンの生徒も準備に加わり、文化祭に展示発表のかたちで参加した。初めてのことでもあり、自分の国のことを知ってもらおうということで、挨拶のことばやちょっとした民芸品などを展示して見てもらった。事業最終年度の今年度は2度目の参加ということで、「わたしの国の民族楽器」というテーマ設定をして発表した。フィリピンやベトナム、南米などの民族楽器を模造紙に書き写して、簡単な説明を書き加えた。また、それぞれが日本で生活をしていることで感じていることを書いて展示した。ボリビアの女子生徒の母親が来場されて、生徒から展示物の説明を受けていたことが印象的だった。 学校外の集まりには、ME-netが主催するものが3回ある。例年、ブラジルの生徒が中心のダンス部が「オルタボイス フェスティバル」に参加するだけであったが、今年度は「オルタボイス 交流会」にもペルー、ボリビア、フィリピンの4名の生徒が参加した。2人はフィリピンの生徒である。1人はフィリピンの中学を卒業して来日し、どこからもサポートを受けていない状態で入学した20歳の生徒で、今2年次に在籍する。全く日本語の読み書きができない状態で入学してきた。もう1人は高校受験の半年前に来日して中学に編入した生徒で今1年生である。個別支援授業や、友だちになったボリビアの生徒との会話を通して、日本語の力を徐々に付けてきている。それとともに生活力も向上して、現在は2人ともアルバイトをしている。 文科省の事業の2年目には、県教委から「かながわハイスクール人材派遣バンクを活用した外国につながりのある生徒への学習支援員派遣事業」の対象校として指定された。2年目、3年目はその予算を使うこともできた。その予算で東海大学の学生に、個別支援授業に入り込みのかたちで入ってもらうことになった。年齢が近いこともあってか、生徒は自分のアルバイトのことを話したりするなど良い関係を築いている。学生からは、4月以降も継続して学習支援に入りたいという希望が出されているが、この事業のシステムの関係で6月にならないと入ってもらえないのが辛いところである。3年目、事業の最終年度には、個別支援事業の担当者の連絡会議の他に互観週間を年2回設定した。手探りの状態で行っている個別支援授業を見える化し、参考にできるところを互いに参考にしつつ、それぞれの実践の内実を豊かなものにしようというものである。因みに個別支援授業は今年度、国語総合(4)国語表現(2)現代文(2)現代社会(2)世界史A(2)世界史B(4)日本史A(2)科学と人間生活(2)生物基礎(2)地学基礎(2)保健a(2)保健b(2)の28時間で実施した。国語関係のものは私が一手に引き受けた。国語表現の授業を受けているのはボリビアの生徒である。将来はボリビアの大学に進学したいという希望を持っている。そこで、学校生活についてスペイン語で作文をしてくることを宿題にした。レポート用紙5枚にわたって書かれた作文を、全日制のスペイン語の先生に見てもらったところ、「すごい」という評価をいただいた。ボキャブラリーの面で年齢相応のスペイン語がつかわれているか心配をしたが、どうやらボリビアの大学に進学してもやっていけそうである。
大学生との時間がもたらした笑顔
夏休みに実施している、日本語補習は昨年度から「にほんごの広場」と名前を改めた。国語総合で個別支援を受けている生徒を中心に、日本語の勉強がしたい生徒が集まれるようにしたのである。今年度は全日制の生徒が1人参加したいといってきた。外国につながる生徒は定時制だけにいるのではなく、全日制にも在籍している。彼は、在県外国人枠のある学校を不合格となり、1年間横浜にあるフリースクールに通って本校の全日制に合格した。その彼の参加で担任をしている全日制の教員から相談や報告を受けるようになった。 今年度新たに企画実施したものに、「OBの話を聞く会」がある。3年次に私が担任して、県立産業技術短期大学校に進学したブラジルの生徒に話をしてもらった。参加した生徒からは「たのしかった。いろいろのべんきょうをもらった。」「よかったんです。いろいろんなアドバイスまらったですから。」「おれは外国人だから、なんかがんばろとおもっている。」(いずれも表記はママ)というような感想が寄せられた。それは今年度、LHR・総合的学習の時間を校内措置で個別支援授業の時間として扱い、日本語指導をする時間としたのであるがその時間を使って実施した。その時間は外国につながる生徒にとって、楽しい時間となっている。フィリピンの生徒が4人いる。毎回テーマを決めて、大学生と日本語で会話する。ある時、専門学校が話題となり、1年生の生徒が突然「メロン」と叫んだ。私たちは何でここで果物の名前が出てきたのか理解できなくて、びっくりしたのであるが、タガログ語で「メロン」は「ある」という意味だと知って大笑いとなった。いつもこんな調子でやっていて、2年生の担任が様子を見に来て「すごく充実していて、楽しそうだ。」と感心していた。それは生徒たちの表情を見ればすぐにわかることだ。生徒たちは4月以降、私がいなくなることを知っているので、4月からはどうなるのかと心配している。今現在、教員配置の関係でその時間をどうするのか、全く見通しが立っていない。それが一番つらいところである。
「心の中のアルバム」
3月6日、定時制の卒業式が行われた。卒業していくのは、文科省の事業が始まった年に入学してきた生徒である。外国につながりのある生徒は26人であった。それが、3年進級時には16人になっていた。そのうち、13人が卒業していった。卒業式は、ステージの上にマイクが一本置かれていて、卒業証書を受け取った生徒がマイクに向かって、親や、教員、友達に対して一言言って降壇するのが伝統となっている。もちろん強制ではない。ところが今年は16人のうち、5人が母国の言葉でメーッセージを述べた。「自分の国の言葉でしゃっべてみろよ」などと仲間内から言われたためと思われるが、中には途中で言葉を忘れてとちってしまう生徒もいた。それらの生徒は教員が特段の支援をしなくても、たくさんの日本人の友達を作って、たくましく学校生活を送ってきた生徒たちである。この学校で10年間勤めてきたが、こんな体験は初めてであった。 こんなかたちで、文部科学省の3年間の事業が終わった。しかし振り返れば、有志団体である多文化クラブの部活動への昇格もできていない。夏休みの「にほんごの広場」も受け継いでくれる人がいるのか。校内措置で個別支援授業扱いになったLHR・総合学習の時間の教員配置はできるのか。また、4月以降も継続で学習支援を続けたいと言ってくれている大学生の気持に応えられるのかも、現時点では全く見通しが立っていない。予算がついて、学習支援員の受け入れが決まったとして、こちらの受け入れ態勢がどうなるのかにも不安はある。厚木清南高校定時制には多文化教育支援担当が3人いる。人数でいえば全国的に見ても、こんな学校は珍しいと思う。しかしなのである。生徒たちは今年受けた支援が、4月以降も続くものだと思っている。その期待に応える必要がある。その期待に応えてやれるのかという不安である。 4月以降、厚木清南高校はコミュニティ・スクール制度が導入され、全日制・定時制・通信制の3課程で業務を推進することが決まっている。その制度の中で外国籍生徒支援を一つの柱とすることになっている。今はその制度の中で、3課程合同の手厚い取り組みが行われることを期待するしかない。 生涯一教員として、ここまでやってきた。初めて担任をして、退学させてしまった在日朝鮮人の生徒の顔も、あの時のまま思い出せる。教員生活の中で向き合ってきた一人ひとりの外国につながりを持つ生徒の顔を忘れることはない。それは、私の心の中のアルバムに生き続ける。

