会報誌「ともに」横浜だより

18.7.31 No.42

昨今の出来事から「差別と人権」を考える 神奈川人権センター 副理事長 工藤定次

 昨年から今日にいたるまで「差別や人権」について考えさせられる残念な事象、事件を私たちが承知しているだけでも立て続けに発生しています。
 最近の差別事象、事件から言えることは、事象、事件は多岐の分野にわたって発生しており、私達の身近でいつ起きても不思議ではないということです。また、その事件が起きた現場周辺には、これまで人権教育、啓発で培ってきた「差別をなくし、人権を尊重する」という視点はあったのでしょうか。現実は残念ながら否定的でしかありません。今必要なことは、被害者救済、事件の原因究明、再発防止と共に、「人権とは何か」が改めて問われていることへの認識と、階層や立場を問わず人権意識確立と定着化へ向けた取り組みと努力です。
 以上のことを常に意識し、それぞれの領域で具体化、実践することが強く求められているのではないでしょうか。

~最近の特徴的な事象、事件から~

<旧優生保護法と強制不妊手術事件>
 戦前(1940年)の旧国民優生法から引き継がれた 旧優生保護法(1948年~1996年)のもとでの「強制不妊手術」は、障害者、ハンセン病患者を対象とし、戦前も含めると実に56年にもわたって強行されてきました。この一連の法律のモデルとなったのは旧ドイツ・ナチスによる「遺伝病子孫予防法」(1933年制定)であり、ドイツでは障害者7万人が虐殺され、20万人~35万人が「強制不妊手術」の犠牲になったと言われています。日本における被害者は旧厚生省の統計でさえも16,500名に及ぶといわれているが実数はもっと多いと見られています。被害者の訴え(国家賠償訴訟)でこの問題が表面化し、ようやくこれから調査が始まろうとしています。まさに国家による差別政策、人権侵害そのものであったと言えます。
 また、これらの法律の根拠となったのは「不良なる子孫の出生を防止する」とした「優生思想」です。この思想は、2016年7月に発生した「相模原・津久井やまゆり園事件」の加害者の考えとも相通じるものがあり決して過去のものではなく、障害者への差別思想として現在にも存在していると言えます。

<芸能界における事件>
○昨年9月にはバラエティ番組でゲイをお笑いの対象とし、揶揄したことが性的少数者への差別として抗議され、社長が謝罪に追いこまれました。
○昨年末には、これまたバラエテイ番組でタレントが顔を黒く塗って登場し、お笑いの対象としたことが人種差別にあたると批判されました。
○今年4月にはアイドルグループTOKIOメンバー(当時)による高校生への強制わいせつ事件も起きています。

<スポーツ界における事件>
○相撲界では、昨年末から今年にかけて力士への暴力事件、行司による若手行司へのセクハラ事件、あいさつ中に倒れた市長への救急行為をする女性に対する「女性は土俵から降りて」というアナウンス、「ちびっ子相撲」への女児の出場禁止とその基本理念である「女人禁制」が女性への差別であるとして批判されています。
○女子レスリング界では、今年に入ってから、コーチによる選手へのパワハラが訴えられ、事件として表面化しています。
○5月にはアメリカンフットボールで日本大学学生による「悪質タックル」暴力事件も派生し、今、日本大学当局がその責任を問われる事態となっています。

<政治における事件>
○4月には森友学園問題などを取材していた女性記者への財務省事務次官(当時、その後辞任)によるセクハラ事件が発覚しました。本来被害者救済を最優先すべきところを被害者に名乗り出ることを要求したことや「はめられた」と加害者擁護としか思えない財務大臣発言など被害者救済とはほど遠い財務省の対応が今でも大きな批判を浴びています。
○地方政治でもセクハラ、パワハラ事件がたびたび発生しています。4月には当時の新潟県知事が女性問題で辞任しており、直近では東京・狛江市長によるセクハラ事件が表面化しました。加害者たる市長は、当初セクハラ行為を否定していたものの、被害者の集団告発によってようやく認め、6月に辞任に追い込まれました。

<こどもが犠牲になる事件>
 こどもが事件や虐待の犠牲になるケースも相次いでいます。2016年度の児童相談所への相談件数は122,578件(神奈川県:2017年度4,190件)と過去最高となっています。
 5月には新潟で女児が殺害され、線路上に死体が遺棄される残忍な事件が発生しています。また、香川県から東京目黒区に転居後、3月に起きた児童虐待死事件(6月に両親が逮捕)では、児童相談所、警察間の広域連携のありかたが問われています。

~問われる人権教育・啓発と人権意識~

 以上の事象、事件からも人権教育と人権意識の向上、定着化の必要性をしみじみ感じます。また、「差別する意図はなかった」「行き過ぎた指導」などは、パワハラ、セクハラ、DV事件などの現場で加害者が言い訳にするために良く聞く言葉ですが、仮に差別する意図がなかったとしても結果としてその行為が差別となって表面化し、時に事件となることはよくあることです。個人の意識、考えは、育った環境や文化、習慣などの影響を受けて形成され、「常識」として身につきます。この「常識」は時代と共に変化しますが、今日の人権侵害や差別が蔓延する社会の影響、特に急速に普及するインターネットやSNSなどへの差別書き込み、差別情報などによって「無意識の偏見、差別観念」として個人の意識の中にすり込まれる危険性があります。その結果、差別事象、事件や差別政策として表面化し、被害を拡大することにもつながります。
 この差別観念やそれに影響された常識から脱却、克服するには何が必要でしょうか? 自らの経験から言えば、即効性の特効薬などはなく、被差別当事者とのふれあい、交流と人権教育に尽きると言えます。このことを意識し、実行することこそが人権意識の向上と定着へと結びつきます。
 また財務省の事件からは、幹部職員への人権やハラスメント教育が義務化されていなかったことも判明しています。国民生活に大きな影響を及ぼす政策を立案、実行している人達や政治家への人権教育は急務の課題であり、政府機関あげての対策が求められています。今まさに人権教育・啓発と人権意識が問われているのです。

~多民族多文化から共生社会へ~

<人種差別を考える>
○「ブラック」表現から考える
 昨今、「ブラック」企業、「ホワイト」企業の表現が安易に使用されているように思えてなりません。ここで言う「ブラック」企業とは労働者を低賃金、劣悪な労働条件で酷使、人権を否定する悪質な企業で、対比する「ホワイト」企業は反対に良心的な企業であるとの意味です。また私たち自身もマイナス局面で無意識のうちに「それはブラックだ」などと発することがあります。果たしてこの表現に問題はないだろうか?ここで言う「ブラック」は「悪」でマイナス、「ホワイト」は「善」でプラスのイメージという意味です。しかし色の好みも多様であり、ブラック(黒)色を好む人も多くいます。さらに問題なのは「ブラック」は黒人、「ホワイト」は白人を意味すること、この表現が人種差別と直結していることへの無理解さを感じることです。無意識のうちに「ブラック=悪」の考えが個人の考えの中にすりこまれる危険性もあります。前述したバラエティ番組で黒人を揶揄し、お笑いの対象としたことも「ブラック」に対する差別意識が無意識のうちにすり込まれた結果としての事象であったと思います。人種差別の意識の根深さは、現在でも大きな問題であることは周知の事実です。安易にマイナスイメージでこの表現を用いることは、人種差別を肯定するとも受けとられるし、その考えに影響されているように思えてなりません。メデイアも少し前までは「ブラック」企業の表現を「」付きにするなどで一定配慮していましたが最近では一般名詞のように使用しています。
 今日、ヘイトスピーチ(差別扇動)に躍起になっているごく一部の人達や人種差別主義者、白人至上主義者の活動が大きな社会問題となっています。この表現は、突き詰めればそういう人達の活動に寄与することにもなりそうです。また、「差別や人権」に最も敏感でなければならない団体、個人がその意味を深く考えることなく「流行語」のように使用していることも問題と言わざるをえません。安易な外国語のカタカナ文字よりも意識的に日本語でわかりやすく表現したらどうかと思います。

○「スターバックス」の反省と取り組み
 アメリカ・大手コーヒーメーカーチェーン「スターバックス」が5月29日に全米8,000店舗以上の直営店を一時閉鎖し、全従業員175,000人を対象とした「人種的偏見」についてのトレーニングを行ったことが大きく報道されました。
 トレーニングの直接のきっかけはフィラデルフィア店舗で黒人2名が友人を待っていたところ、何も注文していないという理由でトイレの使用が拒否、警察に通報、逮捕されるという事件をうけてのことであった。この事件をきっかけに人種的偏見に対する怒り、抗議行動がアメリカ国内で同社に対して広がりました。同社はこの事件への反省と共に、人種に対する偏見、差別は1店舗従業員だけの問題ではなく、各店舗従業員でも共有しているのではないかとの認識を持ったようです。
 トレーニング内容としてアフリカ系アメリカ人の歴史と公民権運動の学習や、小グループに分かれて自らの人種差別体験について話し合った様子などが紹介されています。
 会長は「人種に対する無意識の偏見の払拭、当事者との対話交流が必要」と強調していたとも報道されています。同社は世界70ヶ国、約25,000店舗を展開しており、今後国内外で更にトレーニングを実施する計画とのことです。企業の社会的責任として人種差別撤廃へ向けた同社の取り組みに注目していきたいと思います。

<共生社会実現へ向けて>
 現在、日本では256万人以上の外国人が居住、生活しています。すでに日本社会は「立派な」多民族多文化社会なのです。日本の少子化、労働力不足によって外国人が今後さらに増えるのは確実です。しかし、共生社会へ成長しているかというとまだまだ不十分な現状ではないでしょうか?「難民鎖国」(2017年度申請数19,628名、認定数20名、認定しないが在留を認めた数45名)と言われている現状、参政権や公務職場での任用制限などの法制度からの排除(差別)、「研修生、技能実習生」の名目での低賃金労働者としての雇用実態からもその一端が浮き上がってきます。またDV(ドメスティックバイオレンス)や、人身売買の被害を受ける外国人女性といじめ、虐待の被害にあうこどもたちへの人権侵害も多く発生しています。具体的な事例については信愛塾の日々の活動内容からも一目瞭然です(信愛塾への2017年度相談件数:700件超)。何よりも日本社会に根強く存在する排外主義や差別意識(特にアジア地域出身者に対して)が克服されなければなりません。
 6月5日に公表された政府の「骨太の方針」原案では、労働力不足に対応するために2025年度頃までに新た在留資格を設けて50万人増の外国人労働者の受け入れを見込んでいるとのことです。さすがに外国人への人権保障に消極的で排外主義に同調的な現政権でさえ「体制維持」のためには現実をうけ入れざるを得ないようです。今回の政府原案は、家族帯同なども検討しているようですが、安易な労働力政策としての外国人の受け入れとしか思えません。大切なことは労働力不足への対応、低賃金労働力の導入としてではなく真に共生する、定住も視野に入れた住民・隣人として外国人を位置づけることです。
 そのためには「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる差別を受けることもない」ことを謳った世界人権宣言の精神に基づいた外国人への差別撤廃と人権を保障するための法制度の創設と人権意識の確立へ向けた方針が セットで提起されなければなりません。具体的には外国人施策の充実、人種差別撤廃法や条例の制定、人権教育・啓発のいっそうの強化が当面する課題としてあげられます。それらが具体化されることによって共生社会実現へ向けた取り組みが大きく前進することになります。いずれにせよ「今も、今後も」日本社会を支えていくには外国人に依拠するしかないことは明白です。 「多民族多文化共生」をスローガンとして単に掲げることや行政に対しての要求にとどまることなく、自らの取り組み、活動を強化発展させることが私達自身にも今求められているのではないでしょうか。信愛塾の活動を通じてそのことについて考え、行動しましょう。

子どもたちの眼差し、子どもたちへの眼差し 信愛塾スタッフ 福島周

 5月の末に信愛塾に来る子どもたちが通う小学校2校の運動会が同日開催された。そのうちの一校は急な坂の上にあるため自転車で登り降りを繰り返し、主役の子どもたちより汗をかきながら彼ら彼女たちの活躍と成長を見てきた。特に坂の上の学校には信愛塾に通う子どもが多数在籍しているため見どころがたくさんあったが、演目の一つであるエイサーを踊る輪の中に4年生のMの姿があった。
 彼女は中国にルーツがあり、2013年に来日した。信愛塾の中でも1、2を争うくらい元気で騒がしくもあり、宿題をごまかしてでも早く外で遊びたくてたまらない、そんな活発な女の子だ。母語は中国語だが日本語もだいぶ上手くなった。しかし日本語が出てこないことがあるのは日本語に対しコンプレックスを感じているからだろうか、宿題のプリントに名前を書く際に「わたし日本の名前嫌い」と言ったこともあった。また、算数が苦手で今でも九九の暗算を覚えられずにいる。学校では九九を丸暗記するように教えられるが、そもそも日本語をうまく話せていない彼女にとってはそれが困難であると思い、彼女に中国語で暗算をするように勧めた。そして彼女が九九を敬遠しないで取り組むモチベーションになるよう、私も中国語の九九を覚える努力を始めた。YouTubeで見つけた中国語の九九の歌を仕事中や移動の電車で聞き続け、自転車で信愛塾に行くときや風呂につかりながらブツブツとつぶやいて覚える努力を続けたのでる。ある日の九九の宿題でつまずく彼女にたどたどしい中国語で答えを伝えてみると、発音がおかしかったのだろうか、眉間にシワを寄せて「変なの!」と言いながら愉快そうに笑い、その答えを書いてから次の計算の答えを求めてきた。それ以来、九九をやるときにたまに呼ばれ、相変わらず中途半端な発音の中国語と、彼女の成長中の日本語で九九の計算を続けている。
 4月に入り、信愛塾に新たな仲間が通い始め、そのうちの一人にMの妹もいる。Mは妹の行動を常に気にかけていて、妹が伝えたいことを中国語で聞いて訳してくれたり、授業時間が多いはずのMのほうが早く信愛塾に着いたときは妹を探しに行くこともある。妹が信愛塾に来る前から彼女が姉であることに変わりないのだが、私の目には妹が来始めてから彼女がグググッと成長したように映る。ある日、彼女が中国語で妹の名を呼んでいるのが耳に留まり、名前の発音を彼女に聴き直すと「妹の名前は〇〇、わたしの名前は△△」と教えてくれたのであった。端から見れば他愛のないことかもしれないが、「日本の名前が嫌い」と言った彼女がついに秘密を教えてくれたように思え、同時に心を開いてくれたのかなという嬉しさと手応えを感じた瞬間なのであった。

 信愛塾に来てもう少しで2年が経つ。深く関わればそれだけ子どもたちの成長の瞬間を見ることができ、同時に一人ひとりの背景と課題を知り、辛い現実に直面することも多々ある。運動会で大活躍した翌週、在留資格の届け出をし忘れていたことがわかった外国人の男の子。父親が日本人、母親は外国人なのだが、その父親が昨年の秋に亡くなり、悲しみと動揺、日本で生きてくことへの心配と苦労のために在留資格の変更の手続きをしていなかったのである。「自分のためではなく子どものために頑張りなさい」という竹川さんからの厳しくも温かい言葉に涙した母親は、翌日資格の変更のため入管へ赴き、今は連絡を待っている状況である/高校入学から2ヶ月で一時体重が約20キロ落ちた男の子。家族への、特に母親への複雑な想いと思春期ならではの悩みが深く絡み合い、異常なほどの健康志向のために食事を拒んで別人のように痩せて体調も崩している。両親は多忙を極め、彼が家事の多くを担っている。高校へ進学したものの日本語を理解できてなく、偏った情報と言葉しか受け入れない。彼の心と身体の回復への道を模索する日々が続いている/自分にも友達にも厳しい、真面目な小学生の女の子。母親のしつけが厳しく、ときに手を挙げられているようで、何度も同じところを叩かれた顔の痕と心の傷はおそらく消えることはないだろう。母親は結婚を機に来日し、話せない日本語と慣れない日本での生活、はじめての子育てに悩み、ちゃんとしないといけないというプレッシャーが子どもへの過度なしつけにつながってしまった。手を上げることはたとえ親であろうと許されるものではない。しかし悪いのは母親なのだろうか?
 子どもの状況だけを見れば日本人の家庭でも起こる問題でもある。しかし信愛塾に通う子どもの背景には彼らだけではなく必ず家族の国籍や言語の壁があり、故に一般家庭の子どもにはない不安や課題を抱えざるを得ないのである。女の子は「もっと優しいお母さんが良かった」と言い、高校生の男の子は「クラスの子が羨ましい」とポツリとこぼした。どの子どもにも友達と心ゆくまで遊んだり、割り切れない恋の悩みを抱えるなど、子どもが普通に送る学生生活を過ごしてほしいと思う。そんなふうに彼ら彼女たちが上を向いて過ごせるために何ができるのか。希望と不安を宿した子どもたちの眼差しが、私たち大人に向けられているのである。