会報誌「ともに」横浜だより

23.5.22 No.71

群馬における朝鮮人強制連行と追悼碑 谷川雄一郎(神奈川大学教員)
 近代以降、日本が植民地支配や戦争を通じてアジア諸地域に多くの被害を与えてきたことは、もはや多言を要するまでもない。群馬県内にも多くの朝鮮・中国からの労働者が強制連行され、命を失った。2004年3月、犠牲となった朝鮮人労働者のために高崎市内の県立公園「群馬の森」の一角に「記憶、反省、そして友好」の追悼碑」(以下、追悼碑)が建立された。ところが、この追悼碑が近年の排外主義的風潮と歩調を合わせるかのように公園内から撤去されようとしている。後述するように、建立の経緯からすれば、追悼碑が撤去される理由はまったくない。これは「不都合な真実」はなかったことにしたい日本会議系の自民党県議や排外主義団体の策動にほかならならない。このような動向に対しては、より多くの市民に加害の実態を知ってもらい、後世に伝えていく地道な努力が必要なのであろう。
 そのような問題関心から、3月17日、信愛塾のメンバーと群馬県内の朝鮮人強制連行・強制労働の現場、および犠牲者の追悼碑を見て回るフィールドスタディに同行した。
 当日は追悼碑を守る会(以下、守る会)事務局の石田正人氏に案内していただき、午前から昼にかけては岩本発電所導水トンネル工事跡、発電所取水口、中島飛行機後閑地下工場跡といった強制労働の現場を、午後は追悼碑などを見て回った。
 沼田市にある岩本発電所は京浜地区の軍需工場の電力不足を補うために1943年7月に着工された。地下導水路の掘削には約1,000人の朝鮮人、600人の中国人が動員された。工事のための物資は乏しく、労働者は鑿(のみ)で掘削した。過酷な工事現場から多くの死亡者が出た。現在はトンネルの地上露出部分や取水口などを見ることができる。困難の多い現場であったであろうことがよく分かった。工事は京浜地区の軍需工場が空襲により破壊されたため1945年3月に中止命令が出され、労働者は中島飛行機後閑地下工場の建設に動員されることとなった。発電所は戦後完成し、東京電力発電所として稼働している。
 中島飛行機後閑地下工場跡は、みなかみ町JR上越線後閑駅の付近にある。中島飛行機はこの地の山腹にトラックが入れるほどの幅の横穴を碁盤目状に掘削し、工場とした(1945年7月完成)。ここでも過酷な労働環境のもと、計23人の朝鮮人の死亡者があったことが「埋火葬認許原簿」や如意寺の過去帳から判明している。また市民による遺族探しで3名の犠牲者が確認されてもいる。現在、洞内は個人経営者のきのこ栽培に利用されており、普段はシャッターが下ろされているが、許可を得てシャッターを開けてもらい、洞内に入ることができた。粗末な道具しかなかった環境でここまでの横穴を掘ったのかと、その労働の過酷さを実感することができた。
 見学後、昼食をはさんで高崎市内へ向かい、県立公園「群馬の森」の一角にある追悼碑へ向かった。この公園一帯には、かつて陸軍岩鼻火薬製造所があった。日露戦争後にはダイナマイトの製造も始められた(公園内に「ダイナマイト発祥の地」の石碑がある)。また、1937年に建築された火薬工室の建物が現存している。
 追悼碑は、県民有志が1995年に「戦後50年を問う群馬県市民行動委員会」を結成し、現地調査や聞き取りを開始、明らかとなった事実を踏まえたうえで、2001年に県議会の全会一致をもって建立が採択され、2004年3月に県知事の設置許可を得たものである。ところが、この追悼碑の更新許可申請に対し、県は2014年に不許可の決定を下した。これにより守る会は2014年、前橋地裁に不許可取り消しの訴えを起こし、地裁では不許可決定取り消しを勝ち取ったものの、県側が控訴、東京高裁は2021年8月、不許可処分は正当であるとする判決を下した。
 守る会は高裁判決を不服として上告したが、最高裁は2022年6月15日、これを棄却した。
 高裁判決のポイントは、追悼式で関係者が「強制連行」という言葉を発すれば、それは「政治的発言」であり、よって追悼式は「政治的行事」となり、中立的な性格を失い、許可条件違反になるというものである。法曹関係者の歴史理解がこの程度のものなのかと筆者は驚き、あきれている。いったい「強制連行」という言葉のどこが政治的発言だというのか。朝鮮人の労務動員が拒否することのできない強制力をともなうものであったことについては、これまで多くの研究者によって実証されてきた。なぜこのような不可解な判決が下されてしまうのか。もっともらしい「中立的」なる言葉の前に、歴史研究の成果がますます蔑ろにされつつあるのではないかという危惧を筆者は強く感じている。
 戦前・戦中に社会の中核を担っていた世代がほとんど亡くなり、当時を皮膚感覚で知る人の声を直接聞くことができにくくなっている。また、さまざまな面において日本社会が凋落している状況のなか、「反日」的なるものを攻撃することに自身のよりどころを求めようとする人が増えてきている。いま私たちをとりまく環境はこのような危うさのなかにある。こうした歴史修正主義に基づく排外主義を克服することが私たちに切に求められている。
中村町・寿町でのフィールドワークからの一考察 閔 庚大(ミン キョンデ)
 2月からボランティアスタッフとして信愛塾に関わり始めた私は、大石さんと竹川さんのご厚意で、3月後半と4月の前半にそれぞれ半日、信愛塾のある中村町周辺と寿町でのフィールドワークに参加した。二日とも雨の降る日であった。中村町周辺のフィールドワークでは、丁度100年前、関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺事件と深い関係を持つ「現場」、戦時中、多くの朝鮮人労働者がその建設に関わったという地下壕跡、2001年に現在地へと移るまで、地元の在日コリアンの子どもたちにとって「居場所」となってきた塾跡地などを訪ねた。寿町のフィールドワークでは、これまで半世紀以上多くの労働者が生活を営んできた簡易宿泊所の密集地、近年建て替えられた町の中心にある公営住宅とその中で住民が集まれるよう設置されたラウンジを訪れ、その後、市の職員の方から町の歴史や現況について学んだ。
中村町周辺のフィールドワークでは、関東大震災直後、近隣の小学校に通う子どもたちが書いた震災作文の中で、かれらが目撃した朝鮮人虐殺の現場に関する抜粋を朗読する機会をいただいた。その内容は、軽く深呼吸をしなければ立ち眩みしてしまいそうなほど恐ろしかった。なぜ、人は「朝鮮人」である、もしくはそう思われたことを理由に殺されなければならなかったのか...。 個人としてどのような人物であるかに関わらず、「朝鮮人」というカテゴリーをもって一括りにされ、命を奪われた人々の無念に思いを馳せるしかできなかった。
 他方、寿町のフィールドワークで町に暮らす労働者や高齢者が集まるラウンジを訪れた。その際、英字新聞を膝に乗せ、私の横を通り過ぎていく車いすの男性を目にした。私はその時、不覚ながら「意外」だと感じてしまった。どうして、私は、その英字新聞を持った男性に対して「意外」だと感じたのか...。私なりに考えてみたが、やはり、そこには「労働者」や「高齢者」といった特定のカテゴリーに対し、私が勝手に抱く像があるのではないかと思う。つまり、その男性は、私の「労働者」や「高齢者」の像から外れた存在であったため、「意外」だと思ってしまったのである。
もちろん、関東大震災直後の朝鮮人虐殺と私個人の寿町での体験を同じレベルで語ってしまうのは、あまりに暴力的かつ不謹慎である。一方で、誤解を恐れずに言えば、私が感じざるを得なかったのは、物事を一括りにしてしまうカテゴリーが私たちの認識に与える影響力の強さである。日々、私たちは、世界にある無数の「複雑性」を「朝鮮人」、「労働者」、「高齢者」とシンプルなカテゴリーに置き換えることで、理解しようとする。それは、生活においてある意味避けられないことだと思う。ただ、一旦あるカテゴリーを使うと、その内部に実はたくさんの多様性が含まれているということをつい忘れてしまう。もしくは、少なくとも私にはそういうことが往々にしてある...。どうにか、ならないものだろうか。答えは簡単に見つからないが、私は信愛塾でのボランティアを通じ、もっともっと「子どもたち」個々に向き合うことから始めてみようと思う。