会報誌「ともに」横浜だより

24.4.18 No.76

『ただいま』 信愛塾スタッフ 王 遠偉

大学院を卒業したあと、私は一般企業に就職をした。埼玉にある自動車部品メーカーに技術職として入社をした。思い返せば一人で生活するのはこれが初めてだった。日本に来た頃は、一人で働きながら生活するなんて考えもしなかった。

 16年前、2008年の6月中旬に私は中国から来日した。来日する2週間前に突然家族から言われ、何もかもがわからない中で日本へと飛び立ち、そしてすぐに近所の中学校に1年生として転入した。ちょうど試験期間中だった。日本語の出来ない私は試験用紙に名前だけを書いて、試験が終わるまでずっと寝て過ごしていた。授業中も同じだった。先生は黒板に板書しながら一生懸命に教科書の内容を説明しているが、私にはちょうど良い安眠剤だった。休み時間はトイレに篭り、授業のチャイムが鳴ると自分の席に戻って寝る準備に入る。これが毎日だった。この状況は信愛塾に出会うまでずっと続いていた。

 私が信愛塾と出会ったのは中学2年の夏休みの頃だった。今でも覚えていることがある。それは初めて家族以外の人に家で呼ばれているニックネームを教えたことだった。「デデ」それが信愛塾の中で私のニックネームとなって、今でもそう呼ばれている。当時私の周りは外国人が少なかった。学校でも学年に1人か2人程度しかいなかった。だから信愛塾に来て驚いたことがある。こんなにも外国人がいたんだ、私と同じ境遇の人はこんなにもいたんだと。それから私はよく信愛塾に来るようになった。日本語の勉強、学校の勉強、おやつを食べて遊んで、そして高校受験、大学受験も信愛塾でお世話になった。

 信愛塾のボランティアとして活動を始めたのは高校進学して間もない頃だった。最初は信愛塾に来ている子ども達に日本語の勉強や学校の勉強、私が中学の時に信愛塾の先生がしてくれた様に子ども達にしていた。それから徐々に信愛塾の他のことをもやるようになった。センター長の竹川さん(私はいつも竹ちゃんと呼んでいる)に付いて研修会で自分のヒストリーを話し、信愛塾で会計等の事務作業、行事などがあった時に引率や雑務等をしていた。それは大学に進学しても、大学院でも、社会人になった時でも続けてきた。

 そして社会人4年目になろうとした時に私は思い切って仕事を辞め、信愛塾の職員になった。理由はとてもシンプル、ずっと恩返しをしたかった。職員になって、ボランティアをしていた時と同じようにしたことは勿論、相談業務や信愛塾を維持していく為の助成申請も、言わば私の仕事は何でも屋だ。またボランティアの時と違って、自分の行動や発言は子ども達だけでなく、信愛塾の他のスタッフや信愛塾を支えてくれる人あるいは関係する人、多くの人が見て聞いている、それだけ責任があることを私はやっているのだなと改めて実感をした。まだ2ヶ月しか経っていないが、今信愛塾に来ている子ども達は私の記憶の中と違って、もっと複合的困難や課題を抱えている子どもが増えている。私は理系出身だから、自分に出来ることと言ったら今はまだ子ども達の話を聴き、寄り添うぐらいしか出来ない。

まだまだ一人では出来ないことやわからないことがたくさんあり、これからはみんなと一緒に助け合いながら信愛塾をやっていければいいと思う。『ただいま。信愛塾!』

編集後記 信愛塾センター長 竹川真理子

2023年度の信愛塾の(多言語対応による)教育・生活相談件数1023件。この数字が訴えるものはとても大きい。横浜市の外国人人口は117,922人(20243月)。市内小中学校に在籍する外国人・外国につながる児童・生徒数は11,667(20235月)。2013年(10年前)より68%の増加である。抱える問題の深刻さは決して数字だけで表されるものではない。この中のほんの一部ということになるが、ある人の相談は困難と苦難を極めた。それぞれが背負った人生を引き受け、必死で仕事をし、家族を養い、精一杯の中で生きている。多くの人はこんな苦労を抱えながら生きているが、だからと言って皆が同じではない。人それぞれが抱える困難があることも忘れてはいけない。

新年度に入り新たな相談も入ってきた。このところ少しずつ増えているのが外国人高齢女性からの相談である。遺族年金、相続、介護、お墓等々、日本語でも難しい専門用語の数々に相談女性は困り果てていた。一緒に考え説明し専門家や行政につなげることができたので彼女は少し安心してくれた。また新学期に入り悩みを抱えた母親や祖母たちからの相談も増え始めている。ピカピカの新一年生の姿を見ながら明日につながる子どもたちの未来を願った。大人は子どもたちの未来応援団なんだから。