会報誌「ともに」横浜だより

24.12.19 No.80

信愛塾設立46年目に~地域実践はどう変わってきたか~ 信愛塾スタッフ一同

横浜の「信愛塾」が設立45周年(1023日で46年に)を迎えた。川崎の「青丘社」が50周年、大阪の「トッカビ」も50周年を迎えた。各地で実践運動を続けてきた市民活動団体が、それぞれこの11月に記念集会を持った。いずれの団体も在日コリアンに対する民族差別事件が契機となって設立(1970年代)され、市民運動と一緒に民族差別をなくす闘いを続け、少しずつ在日コリアンとして生きる権利を確立していった。同時にそれぞれの地域で地を這うような実践活動を続けながら子ども会活動や学習支援、あるいは相談活動など、共に生きる社会実現の地域拠点として発展していった。その過程には民族差別を背景とした“いじめ”や保育園入園拒否、民族差別から逃れるために自分(本名)を隠したり、非行に走ったりする子どもたちの姿などがあった。いずれの地域でも厳しい民族差別の現実に直面していたというのが一つの共通点でもあった。

このような現実を何とか変えていこうと、行政に訴え、各地での運動を展開しながら、少しずつ地域社会の理解を得ていったというのも共通している。74年の日立就職差別裁判に勝利して以降、全国で民族差別と闘う市民運動が展開されていき、80年代の指紋押捺拒否や90年代の在日の戦後補償を求める市民運動、国籍条項撤廃運動などへと続いていった。90年代初めには行政も「在日外国人(主として韓国・朝鮮人)にかかわる教育の基本方針」(1991年横浜市)などを作り、本名を呼び、韓国・朝鮮の歴史や文化を学び、共に生きる社会づくりなども推進するようになっていった。しかし道はいばらの道でもあり厳しく険しかった。

45年とか50年という長い歴史の中ですべてが順調に進んでいったわけでは全くない。在日外国人が地域にどれほど居住しているか、活動に関わる人の数、行政の対応、地域が抱える課題などもそれぞれ異なり、市民運動においても亀裂、分裂が生じたりもした。グローバル化が進んでいく中で、日本社会の右傾化や排外主義が頭をもたげてくるなど、背景も大きく変わっていくという事情もあった。以前には考えられなかった街頭でのヘイトスピーチやヘイトクライムまで登場してくる有様である。インターネット上での差別や排外主義はいまでも後を絶たない。日本に暮らす外国人もそれまでの在日コリアンから中国、ベトナム、フィリピン、ネパールなどに代わっていくなど大きな変化もみられるようになった。各地の団体でも在日コリアンだけを対象にした活動から、いわゆるニューカマーの子どもたちを対象にしたものに変わっていった。抱えている課題も大きく変わり言葉の問題を筆頭に、進路、在留資格、文化的背景、家庭的な問題などかなり違うものがある。

長い歴史の中で見ていくと、確かに変わってきたものがある一方、どの団体も同じように変わっていない共通点もある。それは民族差別の現実である。あるいは人種差別といってもいいような現実もある。小学生でアジアの国からやってきたある子どもは学年が上がっていくに従い民族名を使いたがらず日本名を欲しがる。またある子は肌の色の違いを隠そうとファンデーションを塗るなど常に気を使う。またある子は親が外国籍であっても日本語しか話せないから自分は日本人だと言い切る。ある子は母がやってきたルーツ国の話は外では一切話そうとしない。母語での会話を極力避けようとする。いわゆる“同調圧力”の中で自分を目立たないように、外国人と気づかれないように気を配る。つまり民族差別を恐れて自分を隠そうと追い込んでいく姿は今も昔も大きく変わってはいない。

この問題はマイノリティである外国人当事者というよりも、自分を隠したくなるように追い込んでいくマジョリティ社会の側の問題でもあるだろう。自分を隠すことなく自由に尊厳をもって生きる社会を作ることは、制度的差別をなくし、自由で対等に生きる社会であることが求められる。公的機関での制度的差別(国籍を公務員採用の要件にする国籍条項の存在や外国籍教員を教諭ではなく講師扱いにする常勤講師制度)などは言語道断である。教育においても常にマイノリティの想いに配慮し、アジア近隣諸国・地域の歴史や文化などを知る機会を作ることも大切である。関東大震災時における朝鮮人・中国人虐殺の歴史など、差別や偏見に基づくデマがどれほど大きな悲劇をもたらしたかもしっかりと学んでおく必要がある。また教育現場に外国籍教員をもっと多く登場させることも求められている。ダイバーシティを積極的に進めるなど、日本社会が変わっていくべき課題はいくらでもある。

信愛塾も46歳にもなったが、信愛塾に求められている課題もますます大きくなっているように思える。考えてみれば地域社会が信愛塾を育ててくれたのは明らかである。これからも信愛塾は地域社会とともに歩んでいくだろう。

追悼、裵重度さん 信愛塾スタッフ 大石 文雄

 青丘社理事長、信愛塾理事を長年務めてきた裵重度さんが1123日に他界された。80歳であった。裵さんと言えば川崎のふれあい館や青丘社を思い浮かべる方が多いかもしれないが、僕にとっては常に民闘連運動の中心的役割を担っていた裵さんの姿である。民闘連とは「民族差別と闘う連絡協議会」のことであるが、日立就職差別撤廃運動にかかわった人たちが集まり全国民闘連が結成されていった。1970年代中頃に全国各地で民族差別をなくす地域実践が始まっていくが、「実践・交流・共闘」をスローガンに各地での地域実践を持ち寄り、在日コリアンも日本人も「共に生きる」ことを目指し、民族差別をなくす市民運動として闘いを続けた。指紋押捺拒否闘争をはじめ入居差別撤廃など一つ一つ差別を解消していった。神奈川では80年代後半に民族差別と闘う神奈川連絡協議会(現・かながわみんとうれん)ができるが、川崎市との交渉では裵さんはいつも「インテリやくざ」(裵さんの造語)であることを誇るかのように、時に厳しく、時に優しく温かみがある言葉で語りかけ交渉をリードしていった。裵さんの話はとても表現豊かで蘊蓄に富み、多くの闘いや厳しい体験、その中で出会った人々とのやり取りなどから導かれた成果をいつも分かりやすく伝えてくれた。講演を頼むと必ずと言っていいほど在日コリアンの歴史や法的地位の変遷が年表として資料に添付されていた。まさに在日二世としての裵さん自身が歩んできた道(「新作路」)でもあり、生きた歴史として多くの人に伝えたかったことであったと思う。困った時にはいつでも相談に乗ってくれ、闘いの先輩としていいアドバイスを与えてくれた。裵さんは青丘社50周年での講演を最後にあっという間に別の世界に行ってしまった。残されたものとして思うことは、雲上の裵さんからいきなり「オイ、「共に生きる」って何だよ?この程度のものかよ」と問われないようにしたいものだ。僕だって「在日」としての生き方を教えてくれた先輩から叱られたくはない。感謝の気持ちを込めてご冥福をお祈りしたい。

年末特別寄付のお願い

紅葉の季節も終わり冬の訪れが感じられる季節になってきました。皆様方におかれましてはご健勝のこととお慶び申し上げます。

今年も紙面を借りて信愛塾から年末特別寄付の訴えをさせていただきます。

この一年の信愛塾の活動を隔月刊行しているニュースレターでもお伝えしていますが、例年にはない大きな動きがありました。それは今年の2月に中国人スタッフを採用し「居場所」、学習支援、外国人相談の充実に努めてきたことです。特に大きく変わったと思えるのは子どもたちの笑い声とおしゃべりと騒がしさがぐっと増えたことです。秋には45周年記念行事を行い、それに合わせて初めての試みであるクラウドファンディングにも挑戦しました。信愛塾には中・高生たちも毎日のようにやってきて、若い人が増えてきているのが感じられます。外国人相談などかなり厳しい現実の中で追われ続ける場面もありましたが、子どもたちの笑顔を絶やすことなく活動を続けてこられたのではないかと思います。

財政的には当然大きな変化も生じましたが、何とかやり続けられているのは、ひとえに皆様方の温かいご支援のおかげであるのは言うまでもありません。

 ただ、信愛塾の財政が厳しい状況にあるのは今も変わりはありません。信愛塾が活動していくためにはスペースの確保や維持管理、スタッフの人件費、事業の運営費、教育や生活面で困難を抱えている子どもたちへの直接的・具体的支援など諸々の費用が掛かります。助成金申請なども行っていますが財政的にはいつも危機的状況にあるのも変わっていません。

 常日頃、私たちの活動にご理解をいただき支えいただいている皆様に、重ねてご無理をお願いすることは誠に恐縮ですが、「共に生きる」社会を築くため、そして未来を担う子どもたちのためにも、年末特別寄付による信愛塾へのご支援を、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

編集後記 信愛塾スタッフ 王 遠偉

 11月ぐらいから物凄く時間が立つのが早く感じる。信愛塾の日々の実践はもちろん、45周年の集会や色々な学習会・研修会、とても充実している。今年も残り僅か、私が信愛塾のスタッフとしてあと1ヶ月で1年になろうとしている。少しは成長していると思う反面、まだまだ経験も知識も足りていない。気持ちを新たにし、来年からまた頑張っていきたいと思います。