25.2.28 No.81
- 「実践現場からの提言」
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●共生の現場、信愛塾ができるまで
信愛塾は今から46年前に中華街の片隅で誕生しました。その後信愛塾は、南区中村町に越してきますが、中村町は戦前から港湾労働や土木工事などに携わる朝鮮人や中国人が暮らしてきた街でもあります。1923年9月1日に起こった関東大震災時には、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が襲ってくる」というデマが流され、そのデマを信じた軍や警察や自警団によって多くの朝鮮人が虐殺されました。ここ中村町や中村川付近でも多くの朝鮮人が無残に殺害されたという記録が残されています。
信愛塾ができるようになったきっかけは、小学校入学を間近にひかえた韓国人の子どもの母親(オモニ)の訴えからはじまりました。近所の日本人の子どもたちには就学通知が届いているのに、自分のところには何も送られてこない。「いったいどこの学校へ入学させたらいいのか?」と母親は在日大韓基督教横浜教会に訴えました。訴えを聞いた教会の関係者や教員が中心となって横浜市と話し合いを重ねた結果、ようやく在日外国人の子どもたちにも就学案内が送られてくるようになりました。こうした取り組みの中から、1978年の秋、在日韓国・朝鮮人の子ども会として信愛塾が誕生しました。それは何よりも、子どもたちに民族の誇りと自覚をもって自立してほしい、基礎学力をきちんと身につけてほしいという保護者たちの強い願いによるものでした。
●在日外国人との共生、差別をのりこえる実践
しかし、そうした保護者たちの願いにもかかわらず、今度は信愛塾の近隣にある学校で子どもの心をひどく傷つける民族差別事件が起こります。本名で通っていた韓国人の子どもが、学校で差別され、いじめにあい、学校へ通えなくなるという事件でした。その後も学校現場を中心に民族差別事件が頻発していきます。それらの解決に向けて信愛塾と横浜市の教育委員会(以下市教委)との話し合いが続けられていきました。80年代には指紋押捺拒否運動が全国に拡がっていきますが、ちょうどその運動が終息しかけたころ、横浜市教委は「在日外国人(主として韓国・朝鮮人)にかかわる教育の基本方針」を制定(1991年)しました。民族名を尊重し本名を名のり、民族の歴史と文化を学び、差別を許さず人権を尊重する教育の方針化でした。横浜市はこれまで頻発してきた学校での差別事件の反省に立って民族共生教育の必要性を認めていったのです。
92年には「ヨコハマハギハッキョ(夏期学校)」も始まりました。ハギハッキョには市内在住の多くの韓国・朝鮮人の子どもたちが参加してきました。これは学校の教員たちが中心になって、教室で孤立している韓国・朝鮮人の子どもたちを一堂に集め、民族文化に触れる機会を作ろうと始めた取組でした。ハギハッキョへ連れてきてもらう車の中で、初めて韓国名の本名を親から教えてもらったという子どももいました。信愛塾でも「自分を隠すことなく生きる」ことをめざし、高校生たちが参加できる母語(韓国語)教室やスタディツアーなどを行いました。在日一世の話を聞いたり、日本と朝鮮との関係史を学んだりもしました。これらは信愛塾文庫として収録されました。信愛塾文庫は第6集まで発行されています。
●アジアの諸地域からやってきた新渡日の子どもたち
この間に、信愛塾は3回の移転を経て現在の場所(中村一丁目)に居を定めますが、難民条約の加入や入管法の改正などの影響もあり、特に90年代後半ぐらいから地域に暮らす外国人の国籍や在留資格に大きな変化が表れてくるようになりました。韓国・朝鮮人が逓減し、中国や台湾、フィリピン、タイなどアジアの近隣諸国からやってくる新渡日の人々が急増してきました。また、相談も在留資格にかかわる相談が急激に増え、中には、オーバーステイで強制送還されてしまう家族や子どもたちまで出てきました。信愛塾では強制送還された子どもたちが見知らぬ祖国で学び続けることができているのか、またどのように暮らしているのかを知りたくて、子どもたちの祖国を訪ねるスタディツアーを行いました。その体験が日本へやってくる子どもたちの背景を知ることにもつながり、後の相談活動や学習支援に大いに役立つことになりました。信愛塾にやってくる子どもたちの中には中国残留日本人の子どももいました。戦前中国大陸に渡り子どもの時に帰国してきた親や祖父母を持つ家族で、親世代が日本語をよく理解できない家庭で育てられた子どもたちでした。
●「居場所」を利用しての実践活動
信愛塾は、2004年11月に「日本に居住する外国人の教育生活相談や学力・進路保障事業、ふれあい交流事業などを行いながら在日外国人との共生社会の実現に寄与することを目的」としたNPO法人の設立に至りました。名称も在日外国人教育生活相談センター・信愛塾に変わりました。
現在、信愛塾は8ヵ国の在日外国人の子どもたちの「居場所」「再生の場」として、また学力保障の場として活動を続けています。子どもたちが学び続けていくためには子どもたちが置かれている背景を知ることがとても大切です。中には食事がちゃんと摂れてない子ども達もいます。勉強の前に大切なことはお腹が満たされていることです。「おなか空いてない?」「空いているにきまってるじゃん」。いつも年下の子どもの面倒を見させられているヤングケアラーの子は空腹を訴え、たくさんの困難を抱えています。心の奥にしまい込んだストレスや理想と現実のギャップからくるどうしようもない気持ちをぶつけて来ます。ある中学生は薬の過剰摂取により不登校になり心療クリニックに通っています。彼らとも一緒に食事をするなどして関係を作り、家族との関係も作ります。大切なのは彼ら彼女らの話を最大限漏らさず聴くことなのです。そんな子どもたちとのちょっとしたやり取りの中から子どもたちが置かれている背景が分かってくるのです。次に大切なのが子ども達の学習支援や生活支援をするために学校と情報交換したりして連携をとることです。学校と連携したり行政にも繋げたことで命が救われた子ども達や保護者は数多くいます。学校の出来ること、信愛塾の出来ることは明確に異なります。それぞれが当事者にとって何が大切なのかを提示し連携することで次のステージに進むことが出来るのです。
●深刻さを増す伴走型外国人相談
信愛塾では毎日休むことなく在日外国人の教育・生活相談(常設で多言語対応による伴走型相談・「支援」)を続けています。外国人相談は深刻なケースが多く、在留資格が絡んだ複合的な困難さを抱えたものが増えています。学校、役所などの関係機関、入管(出入国在留管理庁)、弁護士、児童相談所などと連携を取り、話し合いを重ねたりしながら、課題の解決に努めます。国籍や民族の違いによる差別、肌の色や日本語が話せないことでの学校内でのいじめなどもあり、結婚や就職などでも差別されるケースもあります。あるフィリピン人女性は日本で生まれて日本語しか話せないのに横文字の名前=外国人ということだけで就職の機会を奪われているのです。彼女はこのような状況の中で心を壊していきました。
●学習支援と母語が使える空間
子どもたちは放課後、学校からの帰り道、信愛塾にランドセルのまま駆け込んできて、宿題をやったり、音読をしたり、公園で遊んだり、ひと騒ぎして帰っていきます。子どもたちの数も増え、背景にある国籍も多様化してきています。新渡日の子どもたちは誰もが言葉の問題で苦労しています。横浜には国際教室も「ひまわり」のようなプレスクールもありますが通える期間が短く充分ではありません。言葉の習得はとても時間がかかり、継続的で繰り返しの努力が求められます。学習言語と生活言語は明らかに違うのです。言葉がしゃべれない、言いたいことが思うように言えないとイライラがつのります。子どもたちはみな自分の気持ちを伝えられないという悔しさを体験しています。このような時、信愛塾には母語で話しかけてくれる先輩スタッフがいるのでとても安心できます。母語で冗談を言い合ったり、時には悔しさをぶちまけてきたり、好きな子の話までしだします。進路の相談や就職・結婚の相談にも乗ってくれます。そして先輩スタッフをロールモデルに少しずつ自信をつけていくのです。
●コロナ禍の中の学び
新型コロナウイルスは子ども達の「学びの場」へも多大な影響を及ぼしてきました。
2020年2月、当時の安倍首相が一斉休校を公表していく中、日本中が学校閉鎖に追い込まれ、家庭学習が主な子どもたちの「学びの場」になりました。その後、学校配信のON-LINE授業も実現しましたが、そもそも外国籍の子どもたちにとって家庭学習は可能であったのでしょうか。特に低学年の子どもたちは1人で学習することは難しく保護者が在宅しないと成り立ちません。外国籍や海外にルーツのある子どもたちの場合、保護者の日本語能力も十分とはいえない家庭が多く、保護者自身が日本の学校に通学した経験もなく、制度もよく知らないこともあり、子どもに勉強を教えることもできないまま日々を過ごし続けてきました。
信愛塾には複合的困難を抱える外国籍の母子家庭が多く在籍していることもあり、コロナ禍の中、いち早く保護者が雇用調整に合って、長期間、収入が無くなってしまうなど、経済的にも精神的にも苦労を強いられたケースもみられました。その結果として子ども達にも多大な影響が出始めたのです。2月、3月と休校が長く続くと、子どもたちも家庭内では母語で会話をするため、せっかく覚えた日本語も忘れてしまったり、外に出られないがゆえに精神的にも落ち込み、家庭内暴力、ゲーム依存をめぐってのトラブルなども続出しました。そこで信愛塾ではコロナ禍の中でも通常通り毎日教室を開放し学習支援と子ども食堂の協力による食事の提供、日常生活物品の配布、家庭訪問などを繰り返しました。それは母子家庭が多いため親の仕事で子どもが1人になった家庭への安否確認でもありました。こうした取り組みは子どもたちの生活安定、学習保障、心のケアへとつながりました。そして、子どもたちはお腹も満たされ心も満たされていく中で不安を払拭し、学習に取り組むことが出来たのです。
●46年の地域実践を生かして―4つの提言
46年間の地域実践の中から見えてきたこと、またこれからも増えてくるであろう外国につながる子どもたちの教育課題について若干触れたいと思います。
横浜市の公立学校における外国籍児童生徒の数(資料提供・横浜市教育委員会)を分析してみると、2011年では外国籍・外国につながる子が6257人(うち外国籍の子が2315人)、2023年の資料では中国・台湾が一番多くフィリピン、ベトナム、韓国と続いています。2023年には外国籍・外国につながる子が11667人で、10年前に比べると倍近く増えているのが分かります。出身国で見るとネパールは50人から131人と倍以上にもなっています。少子高齢化の中で生産労働力人口の減少が経済に大きな影響を与えている現状を見ると、今後、技能実習生や留学生でやってきた人がビザを変えて定住化していくケースが増えていくことも予想されます。出身国でみるとベトナムが急増しておりベトナムからやってくる人はこれからも増えていくことと思われます。問題はこのような大きな動きに対して対応が後手にならないよう、行政がきちんとした政策を提起していくことが求められていると思います。
①このような現実を踏まえ、1991年に横浜市が作成したような「在日外国人にかかわる教育の基本方針」の改訂版を早急に作成し、外国籍・外国につながる子どもたちの背景を踏まえ、課題を整理し政策として方針化することです。本名を名乗れる環境づくり、互いの違いを理解し、差別を許さず、国籍・ルーツ・出身地域に関わらず一人の人間としての尊厳を尊重する「教育の基本方針」を作成し、外国人との共生を推進していくことが求められています。
②次に外国につながる子どもたちが抱えている問題を理解できる教員の養成です。教員養成の場である教育実習の中で外国人との共生の課題を必修科目とし、すでに地域の中で外国人問題を日常的に取り組んでいるNGOなどでの教育実習を積み重ね、在留資格や外国人が抱えている悩み、生活文化の違いなどを学んだうえで教員採用に臨むようにすることが求められていると思います。
③次に外国籍教員を増やす。とりわけ地域に居住する外国人が多く在籍する学校には母語が理解できる外国籍教員を配置することが大切です。言葉の問題をはじめ、アイデンティティや、民族に関わる葛藤やいじめなどに悩んだときに、自分と同じ境遇にある外国籍教員の存在は極めて大きな意味があります。子どもたちにとっては外国籍教員の存在自体がロールモデルとなり勇気づけてくれることと思います。
④最後に地域社会にある外国人との共生を推進するNGOを育成し共に生きる地域社会を作っていくことです。行政や学校は地域の特性を生かし、また地域が持っている活力を生かし、地域のNGOなどと連携協力しながら外国人が抱えている困りごとなどを一つ一つ解決していく仕組みを作っていくことです。とりわけ学校でも家庭でもない第三の「居場所」の存在は重要で、言葉の壁などで緊張を強いられる子どもたちが安全で安心して過ごせるスペースの確保はとても大切だと思われます。行政はスペースの確保や維持などにも支援・協力をしていく必要があると思います。
●おわりに
「信愛塾は日本社会の縮図だね」とよく言われてきましたが、確かに、日本の縮図であり、これからの日本の未来図でもあるかもしれません。「国際都市」横浜というと何となくエキゾチックで、国際交流の舞台のようにも描かれますが、一歩路地に足を踏み入れればそこはまさに外国人が暮らす地域であり「現場」そのものでもあります。日々国境を越えた人と人が向き合い、語り合い、支え合う共生の営みが繰り広げられています。共生の「現場」である信愛塾では今日も子ども達や保護者、スタッフ達の熱意がぶつかり合っているのです。
- 追悼碑の話をしよう
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群馬県高崎市にある群馬の森公園。その広大な敷地(東京ドーム約5.6個分)の人通りがあまり多くなさそうな場所に「『歴史 反省 そして友好』の追悼碑」、いわゆる群馬の森朝鮮人追悼碑(以下、追悼碑)はひっそりと建っていた。23年3月に信愛塾のフィールドワークで群馬県内に残る強制連行・労働の現場を廻った際に初めて追悼碑を訪れた。追悼碑は直径7.2mのコンクリート製の円形の台座、その上に日本語とハングルで記した碑文を掲げた碑文壁、高さ約4mの塔などで構成されていた。塔に開けられた縦長の窓を覗くとその先には碑文壁に入った幅40cmほどの切れ込みがあり、その直線上に朝鮮半島が位置している。碑文と追悼碑の意義をより深く感じさせる素晴らしいアイデアも施されていた。
2月1日に催された「語りつぐ集い」に参加するために久しぶりに群馬の森を訪れると、もちろんそこには何もなかった。台座があった場所は草がまばらに伸び、雑草が茂らない冬の風景に馴染んでしまっていた。撤去の爪痕もないことがせめて良かったのか、そういうことを考えると寂しい気持ちがまた湧いてくる。撤去までの経緯として、追悼碑前で毎年開かれた追悼集会でなされた「強制連行」を含むいくつかの発言に、排外主義的な団体などが目をつけて県に抗議し撤去を要請。県は調査の結果、発言は「政治的発言」であり追悼碑の前で「政治的行事を行わない」という取り決めに反したとして設置の更新許可を延長しないことを決定した。司法に決定の取り消しを求め一審では訴えが認められたが高裁、最高裁はともに訴えを退け、県は24年1月29日から強制執行によって撤去した。当時留学していたベルリンで一人昼ごはんを食べながら日本のニュースを見ていたとき、撤去のニュースが目に飛び込んできた。いくつかの記事に目を通し悔しさ、憤り、情けなさとやるせなさが同時に溢れたこと、そしてしばらく暗澹たる気持ちで生活していたことを今でもはっきりと覚えている。
ベルリンで暮らしていた家の近所に平和の少女像が建っていた。ここでも日本政府からの抗議があり、行政は2020年に撤去命令を出すが「この像はすべての戦争や紛争における性暴力の犠牲者の象徴でもある」とドイツ国内、特に地域住民からも反対の声が上がった。撤去命令は撤回され、その後も性暴力と性差別、さらに人種差別や排外主義などに対して人々が集い声を上げる場所になっている(2022年以降に岸田前首相、上川前外務大臣から再度撤去要請があり、それに反対する署名が4万以上集まったが現在係争中である)。翻って日本で、群馬で、どれだけの人が追悼碑を認識していただろうか。撤去に反対する声はどのくらい上がったのだろうか。1年前に報じられた様々なニュースを今もインターネット上で読むことができる。その一方で先日の集いを取材する人はあまりいなかったように思う。メディアを批判することは容易いが報道量の減少は私たち一般市民の無関心の表れでもある。
集いの挨拶の中で「強制連行により尊厳を奪われた。そして追悼碑が壊されたことで再び尊厳を踏み躙るということをやってしまった。それを許してしまったのは我々である」という言葉があった。私達も「我々」だったのではないだろうか。だからともに想像してもらいたい。強制連行と追悼碑の破壊で二度も尊厳を踏み躙られる。それが「あなたの大切な人」であったとしても無関心でいられるだろうか。
「何ができるわけでなくとも話すことから世論は生まれる」と教えてくれた人もいた。小さくて正しい声を広げていくのは地道で時間がかかるけれど届く人にはちゃんと届くはず。信愛塾の軌跡を思えばそれは信じるに足る事実だ。無関心に抗うために想像を、歴史・反省・そして友好のために話をしよう。話し続けよう。
- 読者からの感想
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信愛塾文庫第6集『明日はどこまで行こうか ペダルで越えたユーラシア』を拝読いたしました。かつて同類の旅をした者として、時に(一方的に)共感し、また未知の世界への学びがあり、金さんへのお礼を含め、感想を送ります。
「〔ともに〕横浜だよりNo79」の書評でも触れられていましたが、著者が、「在日韓国人領事館」があれば、との思いに至ったカザフスタンでの盗難をはじめ、訪れた先で国籍を問われた際の葛藤・・・旅の底流にある「在日韓国人」であることが、他の旅行記にはない問題意識を突き付けてきます。(<梗概>の冒頭―「積年の自己対峙は出口が見えず」の文章から引き込まれるものがありました)だからこそ、かもしれませんが、重く、深刻になり過ぎないよう、「なるべくカッコよくないエピソード・情けないエピソードをあえて選んだつもり」と<エピローグ>に書くような(実際、それが面白くてカッコよい)著者自身の魅力が、この旅行記の醍醐味であり、特徴づけたものでもあるとも思いました。
本著からは、「神は乗り越えられる試練しか与えない」という友人の言葉にあえて試練を求めたり、でも茨の道は避けたいと思ったり、著者の正直すぎるほどの“自分自身”が伝わってきます。読みながら、案外旅慣れていますね、初挑戦の自転車に(死活に関わるとはいえ)かなり真摯に向き合っているな、本当にお酒を飲むんだなあ、損した金をカジノで取り戻すのはまずいでしょ、欧州に入ってから女子へのときめきなど文章に余裕が出てきたぞ、と突っ込みを入れていましたが、自己や他者の肯定/否定、矛盾や葛藤、主体化と客観化など、すべてが否応なく自己と切り離せないことを思い出させてくれました。
30年以上前、川下りを目的に中国、西アフリカを旅して、本著と同じように、道中、人に助けられ、感謝し、また煩わしくなるような気持ちの揺れ、人力の移動に気持ちと体力をすり減らしていく感覚を経験しました。ゴールしても、別に拍手がある訳ではない。中国に関しては強制送還、西アフリカでは海に出て潮に流されかけて必死で岸まで漕ぐという、その結末は悲しいくらい感動的ではありません。では自分の旅は何だったのか、という問いに、おそらく似たような過程で、著者は「この旅をした十三ヶ月だけが人生において凛然と輝くでもなく、大きな影を落とすでもない」、「大きく変わる」ものではないが、「幾分どっしりと構えることができるようになっているのかもしれない」という現時点での思いを記しています。とても大切な言葉を贈られたような気持になりました。
<プロローグ>のキルギスの峠越えや星星峡でのスイッチ切替えなど印象的なシーンも多く、旅行記としてのおもしろさがあります。自分と金さんの旅とでは、一人かどうか、何より社会人になる前かどうかの違いがあり、一方的な共感は迷惑かもしれませんが、お礼とささやかな感想をお伝えできれば幸いです。
2025年1月 伊藤宏教