会報誌「ともに」横浜だより

25.7.1 No.83

麗水・順天事件と韓国大統領選~引き裂かれる現実の前で 信愛塾スタッフ 大石 文雄

韓国現代史の本を開くととても衝撃的な写真をよく見かける。それは()()順天(スンチョン)事件に関連する写真である。子どもをおぶった若い女性が土手のようなところで(むしろ)にくるまれて並べられた死体の中に自分の夫がいないかと探して回っている写真である。この5月に、「韓国現代史を訪ねる朝鮮半島南部スタディツアー」に参加して()(スン)事件の記念館を訪ねることができた。実はその写真のほかに別のアングルから撮った写真もあることが分かった。それは女性が死体の中から夫を見つけ出し、その場にしゃがみ込んだまま天を仰いで慟哭している姿だった。韓国の現代史になぜこんな悲劇が起きたのか僕は本当のことが知りたかった。日本では今年戦後80年を迎えるが、朝鮮半島では植民地支配からの解放、光復節の80年でもある。

麗順事件(19481019日)は解放後、植民地支配から新たな統一国家を作ろうとした時代の中で生まれた悲劇であり、負の歴史遺産でもある。8月15日、解放直後に38度線が引かれ、朝鮮半島は、北はソ連が、南はアメリカ中心の占領下におかれ分断体制がしかれる。南朝鮮でも左右対立が激化していく中で南だけの単独選挙が行われようとするが、単独選挙強行に反対して済州(チェジュ)島では4.3事件が起こる。済州島の左翼ゲリラを掃討するために、朝鮮半島南端に位置する麗水に韓国軍14連隊が結集する。ところが、軍隊の中で反乱がおこり、反乱軍は麗水や順天の街を制圧する。すると今度は反乱軍を鎮圧するために、さらに軍が投入され、反乱軍兵士は()()山などに逃げ込みゲリラ化していく。反乱が鎮圧されると鎮圧軍や警察が住民たちを近くの小学校の校庭に集め、麗順事件の同調者探しが行なわれる。人で埋まった校庭の真ん中に通路を作り、そこに疑わしい人を通過させる。住民に指さされた人は同調者としてみなされて連れていかれ銃殺されたという。犠牲者はまさしく地域に暮らす人々であった。こうした内乱がやがて朝鮮戦争(1950年)へと繋がっていくのであるが、そもそも朝鮮半島分断は日本による植民地支配を抜きには起こりえなかったという事実を僕らは忘れることはできない。

スタディツアーは巨済(コジェ)島の捕虜収容所跡や、(ボル)(キョ)にある太白山脈文学記念館、晋州(チンジュ)の国立晋州博物館、釜山にある臨時首都記念館など、主に韓国現代史をたどる旅であったが、僕にとってはリアルタイムの今の韓国を知る旅でもあった。釜山最後の夜、僕の昔からの友人で今回も通訳を務めてくれた(パク)(チョン)()さんを囲んで、落ち着いた雰囲気の喫茶店でビールを注文した時の事だった。店の主人から「どこを回ってきたのか」と聞かれ、朴さんはみんなで麗水・順天事件記念館や太白山脈文学記念館などを回ってきたことを伝えた。(麗水でも筏橋でも「遠いところをよく来てくれた」と歓待されたのだが・・・)ところが店の主人は「なぜそんなところに行ったのか?」とかなり激しい口調で聞いてきた。「麗順事件は共産主義者の反乱を軍が鎮圧しただけのことではないか」「植民地支配といっても日本もいいこともしたんだ、ここ(この店)には伊藤博文の本だって置いてある」と一方的に話しかけてきた。議論にもならず僕らはただ話を聞くだけだった。ちょうど韓国大統領選の真っ最中だったこともあり、また(ユン)(ソン)(ニョル)元大統領の弾劾や戒厳令などをめぐっても、地域格差やジェンダー、北朝鮮への対処法、歴史認識などでも韓国社会は大きな対立の真っただ中にあった。主人が席を外した後、朴貞雅さんは「いきなりこんなことを言われたのは初めてです」と愚痴っていた。日本に戻って来ると数日後が大統領選の投票日であった。結果は野党「共に民主党」の党首李在(イジェ)(ミョン)氏の勝利となったが、今回の旅で僕が強く感じたのは韓国社会が左右に異なるベクトルで引き合っている、まさに「分断」という重い現実であった。太極旗と米国旗をかざす尹大統領支持派の人々はペンライトをもってデモに参加する人々を赤(「パルゲンイ」=共産主義者)とまで言って罵っていた。ユーチューバーは日本のヘイトスピーチ同様、煽りたて、汚らしい言葉で激しく相手側を攻撃していた。昨年12月からの弾劾・戒厳令・その後の大統領選と国論を二分するような動きは、4.3事件や麗順事件、光州事件、その後の民主化闘争などの歴史的評価をめぐっても大きく対立し、互いが引き裂かれていくように思えた。特に大統領選という仕組みが左右対立の激化をもたらしてきたが、今回は弾劾が繰り返されただけでなく非常戒厳や内乱罪までが問われてきたのだからなおさらである。

いま世界中で分断や亀裂が深まっている。二項対立の激化、独裁や権力者に対する抵抗、攻撃する対象を「敵」にして煽り立てるポピュリズム、ネット利用も問題が多い。アルゴリズムによる一方の極への収斂、陰謀論、権力者に都合のいい歴史の改竄・歪曲・否定、ファクトチェックのない流言の垂れ流し。今、人々はこのような時代の中で無防備のまま生きている。ではどうしたらよいのだろう?批判的精神を養うと言っても並大抵のことではない。答えは見つからないが、僕は多くの無念な思いを抱いて亡くなっていった人々へのシンパシーを失わないことが大切だと思っている。そのためにも、歴史の現場に立ち想像力を働かせ、虐げられ殺されていった人々の声に耳を傾け、考え続けることではないだろうか。それはガザでもアウシュビッツでも南京やヒロシマ、沖縄でもだ。そして麗水でも…である。

 ※済州島4.3事件とは1948年4月3日、南朝鮮だけの分断・単独選挙に反対して済州島で起こった島民の武装蜂起を米軍政および韓国の軍警などが鎮圧するために引き起こした一連の島民虐殺事件。鎮圧過程で3万人近くの無辜の島民が犠牲になった。すべての戦闘終結までに島民の5分の1にあたる6万人が死亡したとされる説もある。

編集後記 信愛塾スタッフ 王 遠偉

 今年もあっという間に半分が過ぎていきました。前号の「ともに」にて書いた原稿の中に出てきたあの中国人児童はまだえんぴつを握ってくれません。いつもランドセルの中には筆箱以外何も入っていないです。それでも、彼は毎週欠かさず信愛塾に来てくれます。彼にとって信愛塾は徐々に安心して居られる場所になっているのではないかと思っています。

 彼がえんぴつを握るようになるにはまだまだ時間がかかると思います。もしかしてえんぴつを握ってくれないのかもしれません。しかし、一つ言えることは彼の複雑に絡み合った心の糸は少しばかり解けてきたのではないのかと思います。